以仁王の挙兵については、平家の専横を憤ってのことと説明されることが多いのですが、王の発した令旨には「天武皇帝の旧儀を尋ねて、王位をおし取るの輩を追討し」とあります。
「王位をおし取る」とは、清盛が外孫である安徳天皇を皇位に就けたことを、不法に皇位を奪ったと解している見られます。そして、「天武皇帝の旧儀を尋ねて」というのですから、かつて天武天皇が壬申の乱を起こし、弘文天皇(大友皇子)を排除したように、自分も武力を用いて安徳天皇を討伐し、代わって皇位に就くと宣言していることになります。
つまり、挙兵の目的は、平家打倒に止まらず、自らが安徳天皇に取って代わることにあったわけです。
以仁王がこのように宣言したのには、その経歴が影響していると思われます。
以仁王は、ときの治天であった後白河上皇の第3皇子で、才学に優れており、挙兵した治承4年(1180年)当時は、第1皇子(二条天皇)の血統が絶え、第2皇子(守覚法親王)も出家していましたから、自らが皇位に就く可能性もありました。
しかし、即位したのは第7皇子(高倉天皇)で、それは生母で平清盛の妻の妹でもある平滋子の圧力と見られていますが、以仁王としては相当不満があったと思われます。
そして、高倉天皇の皇子が皇太子となり、この年の2月に践祚し、4月にはわずか3歳で即位して、安徳天皇となりました。これで以仁王即位の可能性は、ほぼ消えたわけで、このことが挙兵の決定的な動機となったと見てよいでしょう。
すると、以仁王が平家・安徳天皇追討の令旨を発したのは、同年4月のことですが、挙兵を決意したのは、これに先だって、天皇が践祚した2月から即位した4月にかけてのことと考えられます。