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2022/1/27 13:59

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動画【米国から見た神風特別攻撃隊】これが特攻の真実の記録だろ~う? http://www.youtube.com/watch?v=evC_UP-J6ME&feature=related

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2022/1/27 14:14

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

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お礼日時:1/29 13:57

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昭和二十年六月五日、陸軍第九六歩兵師団第三八三歩兵連隊長エドウィン・T・メイ米陸軍大佐戦死。六月十八日、午後一時二十五分、前線視察中の米第十軍司令官サイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア米陸軍中将戦死。同日午後二時三十分、第六海兵師団第二二海兵連隊長ハロルド・C・ロバーツ米海兵大佐戦死。翌十九日、陸軍第九六歩兵師団副師団長クラウディス・ミラー・イーズレイ米陸軍准将戦死。 米第十軍司令官サイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア米陸軍中将の口癖は「戦争を早めに終える方法はただ一つ、もっとジャップを殺(や)れ、もっと早く殺(や)れ」であった。 六月十三日から十七日にかけての国吉台地での戦闘では、四七ミリ速射砲攻撃のため、戦車と火炎放射戦車を合わせて、五日間で二一輌を破壊された。これは、嘉数のような自爆戦はない。又、かなりの数の戦車は、日本軍が米軍から奪った爆薬を地雷にして、夜のうちに戦車の接近経路上に埋めたもので撃破されている。 米軍側は五日間で一一五○名もの死傷者を出した。 日本軍側の、自分たちの陣地を最期の地にするという気概は並々ならぬものがあった。 米軍は煙幕下にこの道路上を戦車に突進させ、迎え撃つ日本軍は煙幕を張られても弾丸が撃てるように、事前に機関銃の射撃方向を固定して射撃した。 六月十八日、この米第十軍司令官サイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア陸軍中将が真栄里で前線視察の最中、日本軍砲弾を受けて戦死したとき、米兵たちは怒りに燃えて、付近にいた住民十数名を、日本軍に司令官の位置を通報したとして射殺している。また、「ジェネラルの仇、ジェネラルの仇」と言いながら、日本兵狩りと称して、白旗を掲げて投降してきた日本兵を射殺しまくったのだ。 六月十九日、歩兵第三二連隊第二大隊は、十九日夜「生存者大隊長以下二六名、只今全員斬り込みを決行せんとす。沖縄上陸以来全戦闘にわたる御教導支援を深謝す。貴連隊の健闘を祈る」と訣別電報を連隊長に打電し無線機を破壊、敵陣に斬り込み全員戦死した。大隊長は志村常雄陸軍大尉である。 沖縄戦に於ける日本軍の軍人、軍属の戦死者は、本土出身六万五九○八名、沖縄出身二万八二二八名。住民のうち戦闘参加戦死者五万五二四六名、一般住民死者三万八七五四名。合わせて一八万八一三六名もの犠牲者が出た。この数字は「戦闘参加者として死んだ非戦闘員のうち、厚生省によって援護法の適用を認定されたもの」であり、戦闘参加を強制されて死んでいったすべての住民が統計に上がっているわけではない。沖縄県民の死者数は一二万二二二八名だが、これにはマラリアや飢えによる死者は、掩護業務の上では必ずしも沖縄戦の死者としてはカウントされていない。日本軍によって食料を奪われて死んだ老人や子供達、壕を追い出されて死んだ人達についても戦闘参加者として統計に上がっている者と、黙殺されている者がある。それを含めた一般住民の総数は、一五万人前後になると推定されている。沖縄県民だけでみると四人に一人が死に、一家全滅も珍しくなかった。六月の一ヶ月だけで、沖縄県民十万余に浴びせられた弾丸の数は、実に六八○万発にのぼり、一人当たり五二発の砲弾を浴びたという。伊江島では、島民の二人に一人が死んだ。又、沖縄各地で約八百人の住民が、スパイ容疑で日本軍によって処刑された。それらの人達は精神障碍者や聾唖者の人達が多かった。日本軍の生存者は七八四一名を数えたがその一半は負傷者であり、他の一半の多くは沖縄戦終焉後、なお坑道陣地に立て籠もって抗戦を継続し、その中にはこの年の秋に及んだものがあった。沖縄戦の何よりの特徴は、軍人を上回る住民の死者を出したところにある。武器も持たず、ただ彼らの住む所が戦場になっただけの不幸の中で、なんという、死者の多さか。昭和二十年五月下旬以降、首里から撤退する日本兵と避難民の行列に、昼夜砲弾が撃ち込まれた。死の十字路と呼ばれた南風原(はえばる)周辺では、道端に片付けた遺体が石垣のように山積みになっていたという。 米陸軍戦死者数は、四五八二名、行方不明九三名、戦傷一万八○九九名。海兵隊戦死者数二七九二名(内衛生兵一一八名)、行方不明一四六名、戦傷一万三七○八名。海軍戦死行方不明計四九○七名、戦傷四八二四名。戦闘によらない死傷者は、陸軍一万五六一三名。海兵隊一万○五九八名。(第一○軍のみ)。全米軍兵戦傷者は七万二○一二名。米海軍戦死者、戦傷者は、ほとんど全てが特攻機による被害である。米軍の戦死者数は、二四時間以内の死亡者数であり、米海軍及び全米軍兵戦傷者の、実際の戦死者数はもっと多い。従軍記者死亡一名。戦闘疲労症患者数、第一海兵師団五一○一名、第六海兵師団四四八九名、その他合計海兵隊一万〇五九八名、陸軍第七歩兵師団四八二五名、第二七歩兵師団一九六九名、第七七歩兵師団二一○○名、第九六歩兵師団二八一七名、合計陸軍一万五六一三名。総合計二万六二一一名。ここに海兵隊について記しておく事がある。海兵隊は、将兵の年齢が若かった。海兵隊は常に、他よりもきびしい任務に充当されることが多いので、出来るだけ若い将兵をもって、部隊を編成するようにしていた。海兵師団の将兵の約八○%が二一歳以下であった。 昭和二十年四月一日、大本営陸海軍部の間では「陸海軍全機特攻化」が決定され、これを受けて発動されたのが海軍の「菊水作戦」であり、四月六日の菊水第一号作戦(陸軍は第一次航空総攻撃)から六月二十二日の菊水第一○号作戦(第一一次航空総攻撃)まで実施された。 沖縄戦における日本軍航空機の損失、通常機七八○○機(うち特攻機二五七一機)。 米軍航空機の損害 戦闘による損害 四五八機 行動中の損害 三○五機 計七六三機(英国軍機九八機を含む) 地上において撃破されたものは含まない。 艦船の損害 沈没三六隻 内、特攻機によるもの一五隻(駆逐艦八、小艦艇およびその他七) 損害三六八隻 内、特攻機によるもの二○二隻(正規空母一二、護衛空母三、戦艦九、重巡三、軽巡八、駆逐艦一一六、小艦艇およびその他五一)その多くが修理不能。(一回以上損傷を受けたのを回数的にふくんでいるので、艦艇数としては二七八隻が正しい) これらの中には、地上からの雷砲撃による沈没一、損傷二。特攻連絡艇による損傷五。機雷による沈没四、損傷一等による損害が含まれている。 損害は全艦船の三分の二に相当。 特攻機の命中は、一艦で複数回のものもある。乗艦が撃破されてスプルアンス大将は、重巡「インディアナポリス」→戦艦「ニューメキシコ」と、同じくミッチャー中将は、空母「バンカーヒル」→同「エンタープライズ」→同「ランドルフ」と、次々に旗艦変更を余儀なくされた。駆逐艦は一週間に一隻の割合で撃沈された。 沖縄戦に従軍した従軍記者のハンソン・W・ボールドウィンは、「沖縄戦は、醜さの極致だ。そう表現する以外にこれをどう説明しようもない。その規模において、その範囲の広さにおいて、その激烈さにおいて、かの英本土航空決戦すら顔色なからしめる」と書き残している。 又、別の米国の歴史家は沖縄戦を「もし日米両軍の装備が同じであったならば、日本軍が勝っていた」と述べている。 沖縄戦に於いての日本軍の軍人、軍属、沖縄県民間人、台湾人及び朝鮮人軍人、軍属、軍夫、慰安婦、米軍、英軍軍人等全ての死者総数は、二四万一六三二名である。(内訳 沖縄県 一四万九五八四名、県外 七万七四五八名、米国 一万四○一○名、英国 八二名、台湾 三四名、朝鮮民主主義人民共和国 八二名、大韓民国 三八二名)但し、一万から一万七千名と推定される韓国・朝鮮人兵士の戦死者名と朝鮮半島出身の軍夫約約一万名から一万五千名(あるいは約三万名とも)、土建業者が連れてきた朝鮮人労務者約一万名以上、慰安婦約六○○名から八○○名などが、統計から洩れている。また、沖縄県民犠牲者数は、実際のところ戦火で戸籍が焼けてしまい、正確な被害者数はわからない。 玉砕戦はアッツから沖縄まで、十二回あったが、五回目のグリーン島と六回目のエニウェトク環礁の全滅は発表されなかったので、前後十回、今回も、今回もと涙をのんで二年間、発表を続けなければならなかったのである。悲痛の思い出に満ちた二年間であった。 太平洋戦争末期、十三歳から十四歳の少年約三○名が、本土決戦の特攻要員として、長野県霧ケ峰高原で約二ヶ月間、木製のグライダーに乗って、滑空する訓練を受けていた。飛行機に爆弾を抱えた特殊なグライダーをぶら下げて敵に近づき、切り離して突入する予定だった。この特攻用グライダーは「神龍」(じんりゅう)という名称で、火薬ロケットを装備して数十秒間の飛行も可能。一○○キロの爆弾を搭載し、攻撃目標は戦車であった。 戦時中、軍は一般の少年たちにも、特攻について思想教育をしていた。 「例え全世界を相手にし、我に百倍する物量の力を一手に引受けても、敵に千倍する威力でこれを撃攘する限り、断じて皇土に夷敵(いてき)を寄せつけるものではありません。幸いなことに、我国はドイツなどと事情を異にして四周環海、敵としてもどうしても大船団を以て攻めて来なければなりませんが、そうなれば我に数千数万の特攻隊あり、敵としては全滅の憂き目(うきめ)を見ることになるでありましょう。」 陸軍航空本部航務課長・飯島正義(いいじままさよし)陸軍大佐 『飛行少年』昭和二十年三月号 終戦寸前、強硬な戦争継続論者だった大西瀧治郎海軍中将は、興奮のあまり、 「もし、お上(かみ)が戦争をやめると仰せられたなら、われわれはたとえ逆賊の汚名を受けても戦争を続けねばならぬ」 「天皇は特攻隊の総指揮を取るべし」

「自分はもちろん、天皇陛下にも死んでいただく」 「天皇といえども、時に暗愚の場合なきにしもあらず」 「たとえ天皇の手をねじりあげても・・・」 「自分も行くし最後は天皇陛下にも特攻機に乗ってもらう覚悟だ」 「百万の敵機が本土に来襲しようと、三百五十万の犠牲も覚悟してこれを殲滅せよ」 「今後国民の五人に一人、二千万人の日本男子(注、国民の二人に一人の割合)殺す覚悟にてこれを特攻として用うれば負けはせぬ。中学生が爆弾背負って戦車にぶつかっていく。そうすれば、アメリカはもう止めてくれという。それが和平のチャンスなり」 と、あくまでも本土決戦論を貫こうとしていた。  海軍の大先輩である小沢治三郎海軍中将から、「二千万人の男を殺して、誰がこの国を再建できるのか」と叱咤された。 東郷茂徳外相は「勝つことが確かなら、ポツダム宣言を受諾するかしないかなど議論する必要はない」と突っぱねた。