律令時代の親王任国は常陸、上野、上総の三国ですが、なぜこの3つが選ばれたのでしょうか?
律令時代の親王任国は常陸、上野、上総の三国ですが、なぜこの3つが選ばれたのでしょうか? それこそ陸奥でもよかっただろうし、同じ関東の大国でも武蔵や下総の方が親王様の任国としてはふさわしい感じがしますけど。
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親王任国 天長3年9月6日(826年10月10日)に制定。 桓武天皇は皇子が多く官職がなくなり苦肉の策で現地の赴任しない国守として常陸太守に賀陽親王、上総太守に仲野親王、上野太守に葛井親王に任命した。 その後、甥の高見王が平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望と名乗り上総介(次官)として現地に赴任する。高望王は任期が過ぎても帰京せず子孫を関東の領主にする桓武平氏、関東平氏、伊勢平氏と広がる。 よって平家の本来の本家は上総広常、平清盛は平氏の傍流のちょー分家である。 律令制下の養老2年(718年)における陸奥国は阿武隈川下流の北岸から宮城県中部まで(伊具郡・刈田郡・岩沼以北)の狭い範囲だけ。 そこより北は蝦夷(えみし)の領域とされた陸奥按察使が置かれた。陸奥国府には鎮守府が置かれ、他国から送られた鎮兵の統括を任務とし、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。大同3年(808年)以前には、陸奥・出羽按察使、鎮守将軍とも、陸奥守が兼任することが多かった。 その後、ヤマト朝廷から鎮守将軍や征東将軍、征夷将軍などが蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し、蝦夷人(アイヌ人)を北海道においやる。鎮守将軍や征夷将軍は当初胆沢城、そして多賀城に鎮守府を置きヤマト朝廷の全任委任で奥羽の支配(政治)を任せた。後の征夷大将軍や幕府の原型。
ありがとうございます。 私の関心は、「なぜ群馬茨城千葉の房総なの?」です。同じ関東でも他は暮らしやすいので赴任希望者が多かったが、この3国は田舎で貧しく汚く住民も粗野で誰も行きたがらなかった」んじゃあないですかね。 あるいはその逆で、古代からの要地で親王が治めるのにふさわしかったか?
質問者からのお礼コメント
ありがとう
お礼日時:5/28 0:05