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壇ノ浦の戦い 舟の漕ぎ手を射る禁じては、この戦い以降使われましたか? 使われているかどうか あるいは、使われるたびに非難を浴びたか

日本史2,399閲覧

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回答(10件)

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NHKの歴史番組なんか勉強になりませんよ。 例えば、「牛の角に松明」なんてお笑い。こんなことしたら、牛はその場で大暴れ。これは中国の「牛の尾に松明」戦法の写し間違いなんです。もっとも、中国の尾に松明もフィクションなんでしょうけども。 中世では、武士だけで無く、農民も商人も漁師も公家も武装しています。武士との違いは戦闘が家業で無いことだけ。だから、後の秀吉の刀狩りが一大画期として兵農分離、太閤検地の3つのセットで教科書の1ページも使うんです。 要するに、船漕ぎとは、漁師で海賊の下級戦闘員なんです。 海軍には補給基地となる産業の発達した陸地が必要です。が、すでに九州は源範頼が抑えており、本州と四国は源義経、平家に「補給基地」はありませんでした。当然、消耗品である矢は不足します。 これで矢戦したら、撃ち負けして、武士にも海賊こぎ手にも当たります。海戦って、実は陸戦の延長なんです。

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大河のそのシーン見ていて思いましたが、そもそも漕ぎ手と武士を区別して狙えたかなと。 かなりの距離を取ってるわけで(でないとこちらも危険)、揺れる船の上にいて標的も揺れる船の上。敵の船に乗ってる人に当たればよし、みたいな状態じゃないですか? 漕ぎ手だけを「素早く」「正確に」打てるとはとても思えません。ましてや壇ノ浦は流れが早いと言いますし。 敵の船に乗り移ってからの話なら別です。刀で武士だけを斬りつけるのが筋なのに、そこにいた漕ぎ手を刺し殺すのは可能だけど非難されるでしょうね。 ただこの場合も、船上の敵兵を全員斬り殺した後に漕ぎ手を殺してもあまり意味はないですから。 この話は創作という説に同意です。

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学生時代に歴史の先生に聞いたのは、源平合戦までは合戦前に武将が名乗りをあげるのが仕来りだったと。 「やーやー、我こそは〇〇が家臣の〇〇なり、遠からん者は音にも聞き、近けば寄って目にも観よ、我と思わん者は出会えそおらえ」 から始まり、理由は誰が誰を討ち取ったかを証明し、恩賞に与るため、そのために自分の名乗りが終わるのまで待つのが暗黙の了解とされていたそうです。 己の武勇が子々孫々残るし、次の合戦には相手は強者と知り脅しにもなったそうです。 この頃までは大人数による合戦も無かったので、名乗りから始める仕来りが定着したが、義経の登場でその仕来りをことごとく破り、勝利して行きました。 義経亡き後も北条執権時代の元寇では上陸した元の大軍の前に武者が踊りでて、名乗りを上げれば嘲笑が起こったNHKの番組で紹介されていましたので、全く仕来りを無視した戦いが消え去った訳では無いようです。 後の鉄砲の普及と、大軍同士の合戦が常態化した戦国時代以降に、仕来り無視の合戦になっていったと考えられます。

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その後の軍船は壇の浦の時みたいなただの小舟では無く、小早舟でも周りに板が張り巡らされるようになるので、漕ぎ手を矢で射るのは無理です。

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「将を射んとする者はまず馬を射よ」という古い諺があります。 何時の時代に生まれたか分りませんが。 黒澤明の映画で、記憶が定かではありませんが、織田軍か武田軍かも忘れましたが鉄砲で馬を撃って画面一面馬が倒れて横たわっている映像が印象に残ってます。 中国も日本も勝つためには手段を選ばないのではないでしょうか。

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