ID非公開さん
2022/5/14 21:25
3回答
曹操は三国志の英雄ですが、魏の北方に敵はいなかったのですか?モンゴル帝国みたいな遊牧民族とか。普通に考えたら呉と蜀と争ってる好きに北側から攻められても不思議ではないと思うのですが。
曹操は三国志の英雄ですが、魏の北方に敵はいなかったのですか?モンゴル帝国みたいな遊牧民族とか。普通に考えたら呉と蜀と争ってる好きに北側から攻められても不思議ではないと思うのですが。
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北方異民族は、鮮卑および、それから派生した烏丸らが強勢な時代でした。 ・・・が、それも黄巾の乱あたりまでの話。曹操の時代は強いリーダーが不在であり、そこまで強くはありませんでした。 それまでは鮮卑に檀石槐という強力なリーダーがいて、すさまじく強かったのですが、彼がちょうど黄巾の乱あたりで死去。以後は強力なリーダーが現れず、勢力としては衰えている時代でした。 後を継いだリーダーたちは後継者争いで勢力を落とし、最終的には曹操の庇護下に入るなどしていた弱い時代です。 軻比能がリーダーの時代は頑張りましたが、曹彰にボコられたり田豫にうまくいなされたりで、檀石槐ほどの勢力にはならず。彼らが再び猛威を振るうのは西晋の時代になってからでした。 檀石槐没後、鮮卑から分派した烏丸が北方で勢力を強めます・・・が、曹操の時代は本来族長になるはずの楼班が若年。いとこの蹋頓が代理を務め、それを3人の王たちで支えるという体制。この時点で、強力なリーダーはおらず、そこまで強大な勢力ではないということが分かると思います。 彼らは袁紹の味方をして曹操と戦うも敗戦。蹋頓も楼班も殺されてしまい壊滅的な打撃を受けてしまいました。その後しばらくして歴史から姿を消してしまいます。 ・・・ということで、ちょうど曹操の時代の北方異民族は、強大なリーダーがこの世を去った後の谷間の世代。 強いリーダーがいないためにまとまりに欠けており、後漢や西晋時代ほどの脅威にはなりませんでした。
ID非公開さん
質問者2022/5/14 21:58
そうだったんですね・・・北部はモンゴル帝国のイメージが強く、常に強いというイメージがありましたが、この頃はそうでもなかったのですね・・・ となると、呉は黄河(長江だったらごめんなさい)を挟み海軍重視で海の上で完全防戦、蜀は桟道を完全破壊して完全鎖国してしまえば自国を守るしかなかったのですか❓
質問者からのお礼コメント
いつも面白いツッコミありがとうございます。今回は完敗です。出直してきます
お礼日時:5/17 8:58