漢風諡号は奈良時代に淡海三船が神武天皇からつけたということですが、それ以降のいま教科書に記載されている諡号はだれがつけたのでしょうか。
漢風諡号は奈良時代に淡海三船が神武天皇からつけたということですが、それ以降のいま教科書に記載されている諡号はだれがつけたのでしょうか。 白川天皇や後白河天皇、醍醐天皇や後醍醐天皇など、同じ名称に後がつく天皇がありますが、どのような理由があるのでしょうか。
ベストアンサー
天皇の崩御後の称号は大きく分けて「諡号」と「追号」の2つがあります。 1つは「諡号」で、天皇の生前の事績や業績を元に考え出されたものです。 これに対し「追号」というものがあり、天皇の里内裏の名称や譲位後の居住地、埋葬された陵墓の地名などからつけられたものです。天皇自身の事績業績はあまり関係の無いものであり、言わば簡易版の諡号とでも言うべきものでしょう。 「諡号」のうち一般に知られているものは「漢風諡号」というもので、中国で用いられていた諡号に倣ってつけられたものです。元正天皇まで(文武天皇除く)の漢風諡号は762~764年に淡海三船により一括撰進されたと考えられていますが、それ以降でも光仁天皇までの諡号撰進には関わっていた可能性があると考えられています(明治3年まで即位が認められてなかった弘文天皇と淳仁天皇を除く) 記録上一括撰進より明らかに早い時期に漢風諡号が確認されている文武天皇・聖武天皇・孝謙天皇についてはともかく、その後の称徳天皇・光仁天皇についてはおそらく淡海三船以外に明経道を学んだ明経博士や大外記などの儒家が関わっていたとされています。漢風諡号は『逸周書・諡法解』などの漢籍を元につけられるため、漢籍の知識が豊富な人物が関わっていたと言うことですね。 ただし淡海三船が死去して程なくして「諡号」はだんだん用いられなくなってきます。桓武天皇は諡号なのですが、その後は4代後の仁明天皇・5代後の文徳天皇・8代後の光孝天皇を除いて追号に移ります。この頃から摂関政治が成立してきたため天皇自身の事績・業績が目立たなくなってきているという事情もあるのでしょうが、桓武天皇の次代の平城天皇が薬子の変など明らかにやらかしているため、悪諡を避けるために敢えて生前の事績・業績の関係ない無難な諡を撰進したのが定着したのかもしれません。 その影響か、「諡号」「追号」は明確に区別されているとは言い難い側面があります。 そして↓のブログで取り上げられているとおり、儒家により行われるのはあくまでも諡号・追号案の勘申(候補の選定)であり、候補の中からの最終的な決定は朝議にて行われていたようです。 https://sengokukomonjo.hatenablog.com/entry/2019/01/15/155758 (後花園天皇の追号を決定する際の経緯について述べた記事です) その点では元号法にある現代日本での元号の選定の手続きと同じですね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E6%B3%95#%E5%85%83%E5%8F%B7%E9%81%B8%E5%AE%9A%E6%89%8B%E7%B6%9A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6 (元号法より) さて、質問後半の「後○○天皇」(加後号といいます)については偶然なのか追号のみの事例で、追号を撰進する際にゆかりのある地名が被った際に区別するためにつけられることが多いです(例えば一条天皇・後一条天皇は共に一条殿を里内裏にしていることが追号の理由となっています) ただそれだけではなく、淳和天皇(別称西院帝)→後西天皇のように境遇が似た天皇の追号を用いて加後号を行うケースもあります。後西天皇は前代が兄、次代が義理の甥(霊元天皇が前代の後光明天皇の猶子になっています)であり、自身の子孫に皇統を伝えることが出来ていません。この境遇が淳和天皇(前代が兄の嵯峨天皇で、次代が甥の仁明天皇)と類似していたため、淳和天皇の別称である西院帝からとって後西院→後西院天皇→後西天皇と追号がつけられています。 なお、一般的に諡号は崩御後につけられるものであり、生前に本人が指定することは禁忌とされています。現に中国の皇帝で唯一これを行った魏の明帝(曹叡、曹操の孫です)は後世に猛烈な批判を浴びています。 しかし日本の場合、特に追号に関してはこの原則については非常に緩く、天皇自身が追号を指定する例が多く確認されています。これを遺諡といいますが、これの場合は天皇自身の政治的な意図が反映される場合もあるようです。後醍醐天皇も遺諡なのですが、これは天皇親政が行われた理想の時代とされる醍醐天皇の治世を目指していたためとも言われています。これに加え、後醍醐天皇は兄の後二条天皇との皇位継承争いも抱えており、父が後宇多天皇であったことから宇多天皇の後嗣であった醍醐天皇の追号を用いることで自らが後宇多天皇の、ひいては大覚寺統の正統な継承者であることを示す意味合いもあったものと考えられています。
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