源頼朝が余りにも猜疑心が強過ぎて挙兵時からの御家人は勿論、自分の兄弟等を粛清し過ぎた所為で二代将軍や三代将軍は悲惨な最期を迎え源氏将軍は僅か三代で終わってしまったのですか?

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お礼日時:5/28 1:46

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挙兵時からの御家人で頼朝より存命中に粛清された者はいなかったはずです 上総介忠常は挙兵時からとは言い難い 当初、頼朝からの再三の参陣要請をのらりくらりかわし続けて、他の房総の豪族だけでなく北関東の有力武士団も頼朝に味方する状況になってからあわてて参陣してます 「頼朝の器の大きさに心服して」というのは創作でしょうし、「今さら何しに来た!」というのも頼朝の本音でしょう 甲斐源氏も敵対はしてなかったにせよ、挙兵時は傘下ではありません 当初は同盟関係といえます あとは義経の舅だった河越重頼くらいです 源氏が三代で絶えたのは、二人の息子が頼朝の志を受け継いでなかったからです まあ、頼朝の育て方が悪かったともいえますけど ただし実朝の育て方がに問題があったのは、政子やその妹で乳母の阿波局の責任でもあります 北条にとってベストなのは、実朝の血筋を名目上のトップに据えて、自身が実権を持つ体制だったでしょう 天皇家と摂関家の関係のように それが続いていたら、足利はじめて源氏の御家人によって鎌倉幕府が滅ぼされるという流れにはならなかったと思いますし、北条が衰退しても族滅することもなかったでしょう

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頼朝は、直卒の家臣団というものが持てない状態で、伊豆に流されていて、北条の力によって関東武士の協力を取り付けて政権の中心、政権確立、を図っていきましたので、使えるものは使う、邪魔になったら切り捨てる、ということを巧みに、冷徹に行い、北条もそれを支えて、幕府樹立に至りました。 その後、3代で滅んだのは、頼朝が早くに死んで、次世代の権力基盤を確立するいとまがなかった。次世代が至らなくても、それを的確に輔弼する体制を確立する、という余裕がなかった、というところにあるかもしれないと思います。 頼朝は猜疑心が強いので、家臣たちが次代の当主を輔弼する、ということは猫が魚の番をするようなもので、恐ろしくてとてもできなかった、かもしれないとも思いますが。 そこが徳川との違いかとは思います。

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二代で滅びたのは、 北条の差し金ですよ。 源氏の血を引く関東武士としては、足利がいました。 それを無視して、征夷大将軍は、都から迎えて、北条は、執権として鎌倉幕府を仕切ったのです。

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