ソウです!
コメは、価格変動が存在する“商品作物の一種”ですから。
幕府を倒した“新政府”に入る税は、“年貢”が殆どです。
そして、全国の税(年貢)は、明治4(1871)年に廃藩置県を強行したコトで、新政府の手に入るようになります。
でも、“コメは商品”として取引される品物です。
なので、“年によって価格(←収穫量の変動他)は、大幅に変動”します。
・・・ですから、“税を年貢”として取り続ける限り、政府の“歳入は毎年上下”し、“(支出を伴う)長期的な計画”が立てられない訳ですね。
・・・今のように、“所得税&法人税&消費税・・・”がナイ時代ですから!
そこで、“地租収入=年貢収入”となるようにして、“地租改正条例”を明治6(1873)年に発布したのです。
・・・・・※なぜ地租を“地価×3%”としたのか?:これは、農民が“重税感(“コレだったら、年貢と同じか、それよりキツい!”)“を、少しでも持たないようにするための、3%は“数字のマジック”。・・・つまり“税率”を低くした分、“地価”を高めに設定し、年貢と変わらないようにしたのです。
余分ですが、政府の財政安定の蔭に、農民の涙が!
農民は、“米価が下がれば大変!
”減った売却代金の中から、“高い地租”を納めなくてはならないからです(つまり、“低米価の年”では、地租の納付が追い打ちとなって更に収入源に)。
・・・そこで農民の中には、江戸時代のように、“金でなくてコメで”納めたいと嘆願するのですが、新政府は全て却下!
・・・・・※農民が(米納を)嘆願した理由:地租改正が発表された年、米は明治2年の約1/3に下落。そしてその前年は、約1/4以上に暴落。・・・ですから農民にすれば、“政府の財政は安定しても、これから先で米価がまた暴落すれば、自分らが大迷惑”だと!
こんなんでどうですか(^^)/