罪と罰のスヴィドリガイロフについて。 翻訳者の米川さんはドストエフスキー全集でスヴィドリガイロフは少女をレイプして死へ追いやったり、マルファを殺したろくでなしという前提で解説してます。

文学、古典 | 小説180閲覧

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました。 そのようにして再び読み直すと最初の時とはまた違う印象を受けます。 一線を超えた人達。

お礼日時:6/29 20:34

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ドストエフスキーは二重人格を描き続けた作家という説があります。この説を受け入れて考えるならば、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフを表裏一体とする人物、仮にラスコーガイロフとでも名付けましょうか、この人物の観念に取り憑かれた人格がラスコーリニコフです。この作品を読んでいてラスコーリニコフという人物に何かしらの生があまり感じられません。そこにあるのは肥大した観念のみで生がニュートラルな印象です。一方、ラスコーリガイロフの生の部分、つまりどこまでも生を希求する、生々しく生を求める人物がスヴィドリガイロフです。初めて二人が顔を合わせたとき、ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフの中にもう一人の自分を発見し愕然とします。つまり、実体としてあるラスコーリガイロフの二つの人格がラスコーリニコフとスヴィドリガイロフということです。 清水孝純氏はスヴィドリガイロフの造形は意味不明でこの作品の瑕疵であると批判していますが、自分はこの人物の造形があったからこそ観念だけのラスコーリニコフでは描ききれなかった作品世界の描写に成功していると考えます。 それにしても、生に対する執着の薄いラスコーリニコフが生き残り、どこまでも生を希求するスヴィドリガイロフが死ぬというラストに込められたドストエフスキーの思いあるいは皮肉は奈辺にあるのでしょうか? 余談になりますが、この作品には膨大な創作ノートが現存しています。それを見ると当初この作品はラスコーリニコフの一人称で企図されていたことが分かります。また、スヴィドリガイロフはほんの少ししか出てきません。それがスヴィドリガイロフの構想がドストエフスキーの中でどんどん膨らみ、もはや一人称では描ききれなくなり、三人称への大幅改訂を行って、現在私たちが目にする作品に至ったものと考えています。

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私はどちらの翻訳者さんも作者の意図を理解していると思います。 ドストエフスキーの作品に決定した意図など無いと思っていますね、私は・・・問題は一人の読者である貴方がどう感じるか?その先入観無しに感じたものこそが正しい理解だと思いますし、それと対立した考えもまた正しいと思います。 言わば、よく比喩で使われる素粒子レベルでの「シュレーディンガーの猫」状態のような「重ね合わせ」という人物像を想像すれば理解可能のような気がしています。