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織田信長は最終的に関白ではなく、征夷大将軍になろうとしてたんですか? また、征夷大将軍は関白と太政大臣に比べ官位は低い扱いはなんでですか?

歴史 | 歴史156閲覧

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織田信長に対して二度目の挙兵し 槙島城の戦に敗れた征夷大将軍、 足利義昭は一旦、織田の捕虜と なった。このとき信長は織田の 重臣ら召集して義昭に対する 処遇を協議。会議に参じた織田 家臣ら過半数が義昭を討つべし という意見だったが織田信長は 、この意見を採らず京都から 追放し死罪は回避の決定は 織田信長の独断であったという。 信長が自ら公方に、なろうと いうのなら、その機会で義昭を 殺生した、はずであった。なぜなら 公方の地位は、他者が公方に辞任を 迫ることは出来ず公方が死なぬ 限り公方の地位は取って代わられる ことは無いのだから。京を追われた 足利義昭は、まず紀州へ逃れ 次に若江城に疎開、三好義継の 保護下となったが織田を恐れたのか 毛利の領地へ行った。 織田信長は、どうも足利義昭を 絶対に殺したくは無かったようだ。 なぜなら自分に叛逆した三好義継が 若江城に義昭を匿っているうちは 攻撃してこなかったが義昭が 出て行ったトタンに織田軍は速攻 かけて若江城を陥落させ義継は 討たれた。中々、征夷大将軍の職 やめさせることも出来ない足利義昭は 疫病神というか、いく先々の保護者ら 死を遂げる、三好義継も、そうだが 織田信長も本能寺の変で志半ば、 にして討たれているわけで。

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織田信長は、1578年に右大臣及び右近衛大将の官位を自ら辞任し、その後死ぬまで朝廷の官位に就くことはありませんでした。また、自ら京から追放した将軍・足利義昭について、朝廷に対し解官を求めることもありませんでした(そのため、足利義昭は1588年に自ら辞任するまで、名目上は征夷大将軍の地位にあり続けました)。 そして、信長は1582年の4月末頃、朝廷から太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれを望むかという趣旨のお伺いを受けているのですが、これに対する信長の正式な回答が判明する前に本能寺の変が起きてしまったため、ご質問には「誰にもわかりません。永遠の謎です」と答えるしかありません。 ただし、信長は京から追放した足利義昭を、(やろうと思えばいつでも出来る立場にあったにもかかわらず)征夷大将軍から解任させることもなく放置しているので、少なくとも征夷大将軍を目指していた可能性はゼロに近いでしょう。 また、上記のような経緯から、織田信長は関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれでもなく、日本を平定した暁には、朝廷の権威を借りること無く日本の君主を意味する新たな称号を名乗り、朝廷を完全に無力化しようとしていたなどとする見解も、従来から根強く存在しています。 なお、征夷大将軍は本来、北方の蝦夷を討伐する軍勢を指揮する役職であり、関白や太政大臣のように天皇を補佐して国を治める役職では無かったため、朝廷内での扱いはそれ相応に低いものになっていますが、征夷大将軍という地位は時代による移り変わりが激しく、徳川家の天下となっていた江戸時代の征夷大将軍は、幕府によって「日本の君主であり、中国の皇帝に相当する称号である」と説明され、天皇より上位の称号とされていたので、一律に関白や太政大臣より低い位であったと言い切ることは出来ません。

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室町幕府の足利義昭を京都から追放して毛利に押し付けても室町幕府は存在しているので、これをどうにかしないと征夷大将軍にはなれないのでは?信長は義昭の臣下にはならないでしょうし、秀吉と同じく関白を目指していたのではと思います。

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織田信長がどの様な官途(官職)を望んでいたかは分かりません。 征夷大将軍は、「征夷」ということからも分かるように「夷」を討つ将軍を意味します。 そして、「征夷大将軍」というが官途(官職)が最初に使われるようになった頃には、武家にとっては朝廷から任じられる最高の官途(官職)でした。 流石に、信長の時代には既に「夷」という言葉を使わなくなっていたと思っていたのですが、信長が朝廷に送った朱印状に日本国内の敵として「東夷・北狄・南蛮・西戒」という言葉があります。 信長の最高官途(官職)は「右大臣」で、官位は「正二位」というものです。 信長は、この官途(官職)を辞任しましたが、官位はそのままで、死ぬまで「正二位」は続きます。 それは、当時の朝廷の高官名簿である『公卿補任』に書き残されています。 当時、足利義昭は信長に追放されて備後国鞆にいましたが、『公卿補任』では官位は「従三位」で、官途(官職)は「征夷大将軍」となっています。 信長が官位の上で、義昭を逆転した時期は、天正四(1576)年十一月十三日で「正三位」となります。 そして、平安時代の半ばに藤原氏が朝廷の中枢を独占し、摂関政治の時代と呼ばれる一時期がありました。 藤原氏の北家良房の子孫が、外戚として天皇を補佐する地位、すなわち摂政・関白に就くというものです。 この藤原摂関家の嫡流が、鎌倉時代、近衛・九条・鷹司・一条・二条の五家に分離し、この五家が持ち回りで摂政・関白に就任し、他の公家たちは就任することが出来ませんでした。 関白は天皇を補佐する最高の官途(官職)で、その下に太政大臣(太政官の長官)という官途(官職)があります。

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信長がどういう地位を望んでいたかは現存の歴史資料ではわかりません。 摂政は天皇代行、関白は天皇の政治顧問。征夷大将軍は平安時代は紛争地派遣軍の司令官ですから下級公家がつくポストで、摂政、関白、太政大臣とは比べ物になりません。 しかし、頼朝が言葉の意味を換骨奪胎して、「武家の棟梁にして上級貴族、しかも幕府のトップ」という意味に変えたのです。 信長の性格からすると、なんかこういう横紙破りなことをしたかったんじゃないかなあ。 例えば妻帯のまま天台座主の地位をもらうとか。 「天台座主は仏教界の支配者にして武家の棟梁、しかも公家のトップ、日本国の実質的支配者」みたいな。