戦国時代の長篠の戦いは織田軍が多くの火縄銃で武田軍を 打ち破ったというのは事実ですか? 多数の火縄銃や撃退力は当時画期的だったとして、1万から2万いたらしい、

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「戦国時代の長篠の戦いは織田軍が多くの火縄銃で武田軍を打ち破ったというのは事実ですか?」 想像・推測・解釈を排し、史学的な信頼性に定評のある『信長公記』に照らす限り、事実です。 織田側の鉄炮の大量使用によって、武田側の突撃は、相次いで失敗して、撃退されています。 武田側が突破力をたのんだ尖兵的諸部隊の敗退です。戦闘はここだけではありませんでしたが、一番のキモであったことは確かです。

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戦場で敵兵は動いていて射手が撃ち 仕留めるのに都合よく静止しては、 くれないのですし武田勝頼も 敵の鉄砲隊の命中率を侮っていた のかもしれません。鉄砲うち名人の 杉谷善住坊が火縄銃つかって織田信長 を討とうとしたが2発、信長の身体 というか着物に着弾したものの 織田信長にとって軽傷ていどの 事実上、暗殺失敗だったそうで、 そのとき信長は行軍中で動いている 標的を撃ち仕留めることは如何に 難しいか分るというもの。 織田軍は設楽が原に杭うって横に 棒を渡す簡易な柵を基本とする 防御陣を構築して武田軍への迎撃 態勢を整えたといいます。その柵の 配置が防御を突破する側が 柵の死角を見極めやすくし、その 死角に武田軍を誘き寄せ、まさに、 そこに鉄砲隊で待ち伏せして 射撃の命中率が向上するよう 仕組んだので射撃が、よく武田兵に 致命傷を多く負わせられたようです。

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設楽が原は、丘陵地帯です。起伏があり、谷間は耕作地であり、騎馬の機動には適しません。さらに北は山岳、南は川が流れ、その間南北2キロ程度の狭さです。 武田軍は左右に迂回することもできず、ひたすら前面の馬防柵を突破するために突っ込まざるを得ません。 先頭の部隊が鉄砲に射すくめられて停滞しても、後方から部隊がどんどん来て前に押しやられ、後退もできません。

結局は、どんどん損害だけが嵩むことになります。その上、後方の長篠城を包囲していた部隊は、織田徳川連合軍の放った機動部隊に襲撃されます。武田軍の後方に、敵が出現しました。 退路を断たれた武田軍は一瞬にして敗走に移り、追撃に出た織田徳川軍にいいように討たれたのです。