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戦国時代の豪族、肥田玄蕃允について教えて下さい。

shi********さん

2009/5/2422:30:36

戦国時代の豪族、肥田玄蕃允について教えて下さい。

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eli********さん

2009/5/2501:56:53

肥田玄蕃助軌休 肥田玄蕃允忠政、直勝とも

生没年不詳(墓所 岐阜県 竜洞寺)

土岐氏の一族で、岐阜県可児市広見(当時の明智荘)出身といわれている。

美濃米田城主(米田城を築城)

玄蕃はもともとこの地方の最有力者であったといわれる。
武田信玄との戦いの際、森可成とともに先駆けを務め、その後、森可成の与力とされる。
永録八年に兼山城に森可成が封じられて以降は両者の間には絶えず緊迫した空気が流れだす。
森家の兼山城と木曽川を挟んで相対する前野砦、木曽川と飛騨川の合流地点に小山砦という枝城を玄蕃が持っていたため、その地を森家が欲した為である。

元亀元年(1570)九月、可成や織田信治とともに、信長の南方陣の間、字佐山城を守る。二十日、朝倉・浅井軍の攻撃を受けて可成・信治は敗死したが、玄蕃じゅうは武藤五郎右衛門・肥田彦右衛門とともに字佐山城を死守した。
同年、長男可隆も敦賀で討死していた為、森家は次男の長可が継いだ。
そしてその長可が兼山城主になると、身代の差にものを言わせて前記前野、小山の両砦を占拠した。

時が流れて天正十年春、長可の使者がやってきて「貴公領内の馬串山、至極景山ゆえ この方欲しく候。」と告げる。
勿論、断るのですが、度重なる圧力と無礼な行為に腹を立てていたと思われる。

そして運命の天正十年6月2日、本能寺の変が起こる。
ご存知のように、森長可の弟達、乱丸(蘭丸)、坊丸、力丸、も討ち死にをした。

本能寺の変の後に長可が川中島を撤退して金山に帰る時、玄蕃は諸将と謀って恵那千旦林で待ち構えて長可を討たんと画策していたが失敗に終わる。


そして6月22日、森家において、彼らの葬儀が営まれた。喪主は長兄、長可である。
葬儀も一段落ついたころ、一旦奥に引っ込んでいた長可が出てきた。
鎧を着込んで。兵を引き連れて。

「我が森家はかねてより、馬串山米田城主、肥田玄蕃と領土紛争を起こしていた。
さて、今日は我が家の葬式である。肥田玄蕃も、よもや葬式の日に攻めては来ないと、
油断しているに違いない。攻めるは今だ!行くぞ者ども!」

と、怒涛の気負いで出陣、当然のように油断していた米田城を、攻め落としてしまう。

その日、米田城内は玄蕃の新しい男子(朝日麿)誕生を祝っており完全に油断していた。
さらに病気も抱えており、妻と、生まれたばかりの子と数名の家臣をつれ落ち延びるしかできなかった。
その際、父の危急を助けようとした長男を討たれている。

その後、盟友とも呼べる斎藤氏加治田城へ入り、斎藤氏の協力もあり牛ケ鼻で森家と対峙する。
しかし、争いの元となった馬串山に本陣を置いた長可に再び敗北し更には有力な家臣も生け捕られてしまう。
玄蕃は、身を潜め、後に徳川家へ仕え、大名にはなれぬまま紀伊・尾張徳川家へ仕えたっと言われています。

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