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2023/4/9 0:09

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築山殿と徳川信康ですが、織田と家康に内緒で、築山殿は信康と共謀して、武田と通じたため、信長の怒りを買い、信長の命令で築山殿と信康は殺害された、との事ですが、本当は、家康が築山殿と冷えた状態で、

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回答(5件)

信康は彼が切腹した1579年の段階では家康の男子で唯一成人してました。というよりも生まれてた兄弟は秀康(5歳)と秀忠(0歳)のみです。本来なら信康を廃するというのはあり得ないのです。 が当時家康信康親子を取り巻く環境がそれどころではありませんでした。 当時の徳川内部では深刻な派閥争いがあり、家康がいる浜松の主力部隊と信康のいる岡崎の実務部隊と別れておりこれらの対立が深刻でした。つまり信康は本人の意思関係なく岡崎派に担ぎ込まれたのです。 岡崎派の中には家康を隠居させて信康を相続させる動きも実際にあり、これに当時家康と不仲になってた築山殿も同調したことからこのままでは徳川家が崩壊することを恐れた家康が断腸の思いで正室築山殿と嫡男信康を処分したと考えます。 元々徳川の前身の松平はあくまで三河衆の盟主としての立場であり、信長のように絶対的な立場ではありませんでした。なので家康としては浜松派と岡崎派のどっちにも肩入れというのが不可能であり、徳川の主力がいる浜松派を選択したという可能性もあります。

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私的な考えですが、信康の切腹と築山殿の殺害は、側室・西郷局の存在と長丸(秀忠)の誕生ではないかと思います。 家康にとって、築山殿は今川義元から押し付けられた妻です。信康は押し付けられた妻との子です。 西郷局は家康自身が、好きになり側室にしました。その側室に男の子が生まれたんです。当然、西郷局から生まれた男子を跡取り(嫡男)にしたいと思うでしょう。 築山殿殺害、信康切腹は長丸が生まれた後半年足らずでした。信康の切腹後に、長丸から松平家代々の嫡男に与えられる幼名・竹千代に改名してるんですね。 『どうする家康』では築山殿(瀬名)の殺害、信康の切腹をどう演出するのか、楽しみですね。

岡崎は徳川家の本領であり、そこの城主とされたのは嫡男として相応しい扱いを受け、十分将来を期待されていたということです 「長男なのに」ではなく、「長男(嫡男)だから」です 軍事行動では家康と同陣が多いですが、岡崎勢を率いて戦いに参加して、目をみはる働きも見せてます しかも追放のすぐ直前まで、一緒に出陣して、不和の様子もありませんでした 岡崎の信康家臣団の一部(あくまで一部)が武田に内応しようとし、信康を担ごうとしたのは事実ですが、それに信康が主体的に関わっていたという証拠はありません そもそも長篠の戦いの前のことです のちの秀忠となる長松丸が生まれたから、信康は不用になったなどというのは、当時の幼児死亡率を無視した考えでしょう 築山殿が武への田内応に関わったかは分かりませんが、当時は敵国同士でも、音信をとるのはめずらしくありません 今川家の旧臣も武田家には多く仕官してます 家康だって、信玄の弟の武田信実(長篠の合戦の鳶ヶ巣山砦の主将)とは長く親交がありました この前後で織田に対する謀反・離反、その疑いをもっての信長に依る粛清は頻発していて、信康や築山殿へも疑いの目を向けても不思議ではありません 事件の真相は断定しようがありませんが、邪魔者になったから難癖つけて葬ったというものではないと思います

家康の次男於義丸(於義伊とも。後の秀康)が、家康の築山殿への遠慮から父子の対面がされてなかったのを、それでは於義丸があまりにも哀れと、父子の対面をセッティングしたのは信康といわれています 於義丸の母のお万の方は、元は築山殿の侍女で、家康の手がついたことに、築山殿は非常に憤ったといわれています この事をみても信康は決して母親だけにベッタリではなかったのはわかるでしょう 「父子の対面をしなかったのは、お万の貞操を疑ったから」という説もありますが、そんな女性の子なら、なおのこと親子の名乗りをするよう勧めるはずがありませんし、家康も後に67万石もの大封を与えるわけがありません

https://enpedia.rxy.jp/wiki/家忠日記 こちらの家忠日記の1578年9月を見てください。 家康が信康のいる岡崎へ出仕するな、と命令し、家忠が確認して再度禁止を言い渡された、とあります。 なぜ禁止したのかは不明ですが、いきなりこんな事を言われて家忠も戸惑ったみたいです。父子の不和は事実かも。

安土記と当代記のざっくりした推察ですが 私も武田云々はまったく関係なくて 親子不和や、信康が妻と冷めきった関係だった事が主な原因だと思いました。 完全な妄想ですが 家康・信康親子はかねてより馬が合わなかった。 信康に嫁いだ信長の娘徳姫も信康とは冷めた夫婦関係で 二人連続で女児を産んだ事を信康や姑の築山殿に咎められ 徳姫はますます信康や築山殿を嫌いになり信長に泣きついた。 信長の手前もあり、手に負えなくなった家康は二人の処断を決意する。 もともと不仲だったので、妻子とはいえ仕方がないと割り切れた。