>主人公達に親がいない場合が多い
親の力はすごく強いので、両親が揃っていると子どもが外の世界に出づらくなります。
新海監督は実家が長野県の建設会社で、ちょうど「君の名は。」のテッシーと同じような境遇だったと話していたことがあります。
親は後継ぎにさせるつもりだったらしいですが、新海監督は大学卒業後、日本ファルコムに就職することで、それを蹴飛ばします。
じゃあ、新海作品は長野県が大嫌いかといえば、全然違います。
「すずめの戸締まり」の原型とされる「星を追う子ども」は故郷の長野県小海町がロケ地とされてますし、「君の名は。」の糸守湖は諏訪湖がベースとされています。
つまり、新海監督の中に親や故郷との強い拮抗関係があって、親しみを感ずる要素と反発する要素とが混ざり合っているんですね。
だから、作品でも両親が揃っていると、主人公が親や故郷にくっ付きすぎて、自由に動けなくなると考えたのでしょう。
実際、新海作品で両親共に揃っているというのは、主人公の行動や考えからすると無理があります。
>途中で別れて最後に再会するパターンが多い
これは新海監督自身が説明していますが、物語は『行って、帰る』のが基本と考えているからです。
他には「ボーイ・ミーツ・ガール」のプロットを使っているためでもあります。
つまり、「喪失して、再会する」のが物語の基本単位であり、その繰り返しで作品を構成しているからです。
主人公が帰って再会した時には別の人間になっている、そこで人物の成長を描くというのが基本になります。
単純ですけど、この物語の作り方には普遍性があります。
元居た場所を「日常」とすれば、行くことは「非日常」です。帰ってきた時は非日常によって別の経験を積んでいます。
どんな人間であっても、成長の過程は一緒なんですよ。だから共感がしやすいのです。
日常と非日常、喪失と再会は、画面上でも明確に示されています。
「すずめの戸締まり」「君の名は。」では、扉によって日常と非日常が示されます。
「天気の子」では水ですね。帆高は海を渡って東京に来て、その東京は水没することで別世界に変わります。そして、再び海を渡って陽菜に再会します。
こんな感じで観ていくと、別の発見があると思います。