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好きな人の諦めるべきか 去年授業が一緒だった女性を好きになりました。連絡先を交換し、一度遊びました。しかし、2回目は天候や断り文句っぽい体調不良で結局行けず、諦めました。脈なしです。

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回答(3件)

諦める?少しお持ちください。長文失礼します。 「諦めないで頑張ろう、諦めたらそこで終わり」なんていう言い方をよく聞きますよね。「諦める(あきらめる)」ことに対して、マイナスイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。でも、「諦める」という言葉が本来持つ意味は「つまびらかにする・明らかにする」というもの。大人になると現実的に考えた上で自ら諦めたり、諦めざるを得ない状況になることもありますよね。 そんな時に「諦める」の本来の意味が気持ちを盛り立て、前に進むことを応援してくれそうです。「諦める」の本当の意味を心に留めておきませんか?あきらめやは、明らかにする。 今、日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般だ。しかし、「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。 そうであれば、ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考のプロセスをそこに見出せる。単に「あきらめる」だけであれば、悔い、怨み、愚痴が残る。ものごとの道理が明らかになった上でのことならば、納得しての「諦らめ」となる。結婚というご縁にあずかった。諸般の事情を考慮してこのへんで「あきらめて」結婚に踏み切るか、わが身をしっかりみつめ、賜わったご縁を「諦めて」結婚するか、そこには大きな差がある。後者であれば、後で、こんなはずではなかった、と愚痴ることも少なかろう。 悟りを開かれた釈尊は、その初説法で、四つの真理(諦)を説かれたという。第一の真理は、この迷いの生存は苦である、という現状認識。第二は、その苦は飽くことなき欲望から生ずる、という原因究明。第三は、その欲望の滅した境涯が苦のない悟りであること。第四は、悟りを得るには正しい八つの方法に依るべきこと、である。ここで注意すべきは、仏教が、我々の苦悩の原因を、我々の飽くなき欲望、我々の無知に帰している点である。ややもすると、我々は、自分の苦悩は、社会が悪いから、あの人のせいだからしょうがないといって、「あきらめる」ことでよしとする。逆に、それは自分の欲望、無知に基因すると「諦める」ことができれば、現状を受け入れ、解決の方法をみつけやすい。 それでは、この四つの真理に通ずる仏教の根本道理とは何か。それは、一切は相対的な存在でしかない、と諦らめ、執着しないことである。 詳しくは、「あきらめや」http://eikoto.com/z/

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今回遊びにさそってみて、また変な断り文句だったら諦める方向で良いと思いますよ。

>好きな人の諦めるべきか 難しいですね。 一度目で、女性側が嫌いになったのか、二度目は本当の理由で行けなかったのかわからないまま自然消滅したみたいな書き方でした。 >アプローチしたら相手に迷惑をかけてしまうかもしれないと思いなんとかなにも行動せずに我慢しています。 我慢する必要がある理由がよく分かりません。 >再アプローチしていいですかね? アプローチする分にはいいと思いますが、二度目の時にきちんと理由を聞いていないことと、恋人ではなかったのが気になるところですが。 あとは二度目、遊びに行けなかったことで連絡が疎遠になってしまったこと。 これが一番問題かなと思っています。 うまくいくといいですね。 質問者の質問にきちんと答えられているか心配ですが。 他の方も回答者もあわせ、「質問者が納得できた回答者にベストアンサーをつけて」いただけると嬉しい限りです。