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本能寺の変 いろんな説がありますが本当はプライドの凄く高い光秀が 信長に殴られてぶち切れしてしまい全く計画を立てずに本能寺を襲撃。

補足

筒井や細川に一切連絡してないで勝手に動いたので 当然相手にされない。

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回答(7件)

光秀謀反についていろいろ説があるのは「当時の人ですらなぜ謀反したのかよくわからない」から(光秀が突発的に謀反した) 思い当たることすらないということね ①当時信長は領地が広くなったので、畿内を信長直轄領、地方方面軍を編成し 地方方面軍司令官に全権を任す方針だった ②最初に任命したのが滝川一益の関東方面軍 ②二番手が柴田勝家の北陸方面軍 ③3番手が明智光秀の中国方面軍で、丹波攻めの功績で近江4分の一の領主から丹波・石見の2か国の領主とし、中国方面は切り取り次第(明智の差配に魔かす) ④本能寺は明智が丹波攻めで疲弊したので、その間手取川の戦いで柴田勝家と折り合いが悪くなった豊臣秀吉に信長直属軍をかし、休養が終わった明智軍と交代するという状況でおきた ⑤本能寺の変後貸されていた信長直轄軍の吸収に成功したのが豊臣秀吉 ⑥本来は豊臣秀吉は明智の中国方面軍編成後に四国方面軍として(その功績で)抜擢される予定であり、旧三好家などが配下につけられている たまたま織田直轄軍が存在しない状況があったからできたことである ちなみに光秀自体かなり迷っていたようで、戦勝祈願のさいに だされたちまきを葉っぱを向かないで食べてしまい、考え事をしていた とわびた、という話がある

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光秀の計算違いは豊臣秀吉が速攻で戻ってきたことだが、元から豊臣秀吉は段取りがよく、それが故に抜擢されたということがある スピードが必要な時には豊臣秀吉はよく使われた なので、当然ともいえる (しずがたけの戦いのときも、柴田勝家の予想を超えた早い進軍と布陣がされていて 柴田勝家が驚いた、という記録がある)

人質に出した実の母親が城攻めを命令した信長のせいで殺されたなど、信長の人間性に疑問があったのと、比叡山焼き討ちなど、当時の宗教観との違いなど有職故実に明るい明智光秀と合わなくなっていたのでしょうね? 将軍義昭の追放などもあり、不要になったら追放されるという恐れもあって、嫡男の信忠の宿舎にも護衛が少ないなど、タイミングと条件があったのでしょう! 人はあまりイジメると「窮鼠猫を噛む」となることを心に刻むことですね?!

>いろんな説がありますが本当はプライドの凄く高い光秀が > 信長に殴られてぶち切れしてしまい全く計画を立てずに本能寺を襲撃。 現在の主流の説によれば, 光秀のところに絶好球が来たわけです。 あとは,それを打つかどうかです。 計画を立てていたら,見逃してしまう,そんな状況です。 > 何の計画も立ててないので秀吉の大軍に一瞬で殲滅させられる。 光秀のその時の状況は,絶好球を打つのか打たないのかです。 短期での決断を要し,計画している時間的余裕はさほどないのです。 打たない選択も十分あり得ました。 > 秀吉の大軍に一瞬で殲滅させられる。 秀吉が早すぎたのです。秀吉の迅速さは,通常では考えられないものでした。 秀吉ではなく,ほかの武将ならば,一日はさらに余計にかかっていたかもしれない。この一日の差は大きかったです。 この迅速さは,おそらく黒田官兵衛が控えていたから可能だったと思います。 的確な情勢分析,果断な決断と行動,ここから数年に渡って秀吉は,当たり続けます。黒田官兵衛 恐るべしです。 よく 秀吉は光秀の謀反を前もって知っていたとか,謀略説まで出ますが,黒田官兵衛と秀吉の このときのすごさを貶(おとし)めているように私は感じます。 > こんな感じで野望説とか朝廷黒幕説とかでは全くなく ガチギレしただけなのじゃないでしょうか?? 信長が社長の会社で出世争いをしている光秀は,非常に有能な社員でした。 もしかしたら,この出世争いに自分は負けているのでないかというが,このときの光秀の心境でした。そのときに絶好球が来たのです。 この先,信長の社長の会社でやっていても,自分の芽は出ないかもしれない, と悩んだところでの決断でした。 信長というのは,優秀な人間を好みました。 古く仕えていて無能な部下よりも,外部登用でも優秀な部下を好みました。 ところが,そのような優秀な家臣でも,信長と関係において危機が起こることがありました。秀吉も例外ではなかった。 臣下ではないけれども,家康も信長との関係で危機がありました。 この危機を耐えて乗り越えられるかどうかが,重要な関門だった。 荒木村重は 暴発して信長に反旗を翻した。 光秀は,耐えて乗り越える選択肢はあったともいます。というのは, 信長は優秀な臣下をことのほか好みましたので。 光秀は,優秀な人材であることには変わりはなかった。

光秀なりの計算と言うか、羽柴も柴田も滝川もまず全軍ですぐに京都に引き返してくるようなことはない。いや上手く行けば毛利や上杉の追撃によって壊滅とまでは行かずとも立ち往生してくれるかもしれないみたいな希望的観測があったのでは。悪くても織田家は軍事的にも精神的にも大ダメージを受けて、反撃不可能に近い状態になるはずだと。不思議なのはそうなったと仮定しても取りあえずしばらくはお山の大将的な気分を味わえるだけで、そのあとは自分も共倒れでは・・・ それでも叛きたかった・・・こうなるともう何か織田信長への憎しみと言うより織田家全体への憎悪みたいなものを感じる。