回答(6件)
それらの城は築城の意味が違い、欧州や中国の城塞都市とは少し違います。 大阪城は、そもそもまだ戦国の途中であり、群雄が割拠していた。 それらに対する威嚇的な意味合いと、大阪という日本経済の中心に発展した街を丸ごと囲うことで、経済そのものを一手に掌握するという「新時代」の政治の形を秀吉が内外に示すためのものです。 これは秀吉そのものが考案したと言うより、戦国中期から堺商人が経済力によって自前で隔壁を作り、財産を自衛していた流れを踏襲したものです。 小田原城は箱根山などを抱き込んだ大規模な縄張りで作られており、築城時点で都市と経済圏そのものが防衛機能の一部として機能するように設計されています。先進思想といえば確かにそうですが、これはむしろ、自然の要害と要害を線で結んだら都市全体が城の内側に入ったわ、と行った感覚でしょうか。 中央での政変を睨みながらその「線」を強化した。 江戸城は「太平の世に相応しい大規模な城を作る」と言う、いわば手段が目的となった城です。 外堀通りから内側の古地図を見ればわかるように、城の内側には広大な武家屋敷と少々の下町がメインであり、田畑のようなものは多くない。つまり、籠城そのものは長期で行うことをメインに考えていない城です。 むしろ諸大名の経済力削減と諸大名の「囲い込み」が主目的。 要は、城下に大名及とその家族を住まわせることで人質とし、いわば巨大な牢獄とすることです。 そしてその維持管理によって恒久的に諸大名に出費を強いる「お荷物城」とする。 戦闘面で言うと、大阪城が大砲によって大きな精神的衝撃を受けたことを教訓に、砲弾の射程距離をもとに堀の位置が決められたともいいます。
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