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2023/10/2 16:21

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小田原城、大坂城、江戸城みたいに城の中に街があるのはどんな強みがあるのでしょうか? 有事の際、経済活動は出来るんですか?

日本史 | 歴史99閲覧

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回答(6件)

それらの城は築城の意味が違い、欧州や中国の城塞都市とは少し違います。 大阪城は、そもそもまだ戦国の途中であり、群雄が割拠していた。 それらに対する威嚇的な意味合いと、大阪という日本経済の中心に発展した街を丸ごと囲うことで、経済そのものを一手に掌握するという「新時代」の政治の形を秀吉が内外に示すためのものです。 これは秀吉そのものが考案したと言うより、戦国中期から堺商人が経済力によって自前で隔壁を作り、財産を自衛していた流れを踏襲したものです。 小田原城は箱根山などを抱き込んだ大規模な縄張りで作られており、築城時点で都市と経済圏そのものが防衛機能の一部として機能するように設計されています。先進思想といえば確かにそうですが、これはむしろ、自然の要害と要害を線で結んだら都市全体が城の内側に入ったわ、と行った感覚でしょうか。 中央での政変を睨みながらその「線」を強化した。 江戸城は「太平の世に相応しい大規模な城を作る」と言う、いわば手段が目的となった城です。 外堀通りから内側の古地図を見ればわかるように、城の内側には広大な武家屋敷と少々の下町がメインであり、田畑のようなものは多くない。つまり、籠城そのものは長期で行うことをメインに考えていない城です。 むしろ諸大名の経済力削減と諸大名の「囲い込み」が主目的。 要は、城下に大名及とその家族を住まわせることで人質とし、いわば巨大な牢獄とすることです。 そしてその維持管理によって恒久的に諸大名に出費を強いる「お荷物城」とする。 戦闘面で言うと、大阪城が大砲によって大きな精神的衝撃を受けたことを教訓に、砲弾の射程距離をもとに堀の位置が決められたともいいます。

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平時の際は ・政庁としての利便性 ・権勢誇示。 有時の際は ・収容人数が格段に増える ・敵の包囲網を広げられる ・城下で流通している物資をすぐ接収できる というところでしょう。 有事の際の経済活動で思いつくのは大阪の陣での薄田兼相の女郎屋通いですね。それなりの経済活動はあったのでしょう。

中国やヨーロッパには、都市を丸ごと城壁で囲った、 城塞都市というのがあちこちにあります。 これらの要塞都市は、古代や中世では、 10年以上の籠城戦に耐え抜くなどと言うケースが、 ザラにありました。 我が国には、長く城塞都市というものは発展しませんでしたが、 城壁の代わりに総構えと呼ぶ土塁と堀で、都市を囲った小田原や大阪は、 日本式の城郭都市にあたります。 総構えの内側で、敵の侵入を防ぎきれば、自給自足経済が可能になり、 長期籠城も、可能だっという事です。

この3つの城は少し時代背景が違いますし、どれも平野部の城ですね。 戦国時代は、まさに戦うための城であり、守りやすくするために自然を活用したところに立地をされていました。 つまり、回りを川や海で囲まれた山城が大半だったわけです。 当然のように山の上ですから生活は不便です。 籠城戦となれば餓死者も出るような戦いとなったわけです。 我々お城の役割を考え違いをしてしまいがちですが、実は住まいではなくて、要塞であり、武器庫であり、戦闘をする場所なんですね。 だから、その居住地はその城の付近にあります。 信長や秀吉の活躍で平和な時代が訪れ始めると、お城が本来の目的から現在の市役所のような役割に変わっていきます。 殿様はもちろんですが、その家臣たちの住まいもお城に近接した地域に集まり、やがてはその回りを取り囲むように街が生まれるわけです。 小田原城は秀吉が天下平定する最後の戦いです。 当然小田原城主の北条家は、豊臣軍と戦うために9キロにわたって取り囲むように小田原の町ごと囲ってしまった難攻不落の構えを準備したわけです。 つまり、飲食料はもちろんですが、人員をすべて取り囲むことで、経済活動も行えるし、大量の武器と戦闘武士も抱えることが出来ます。 簡単に言えば、外国まで行ける遠洋漁業の大型船と沖合で漁業をする小型船の違いです。 有事が長期戦を戦える構えを築いたわけです。 実際に、関東にある北条の支城からたくさんの応援が小田原城に入っています。 実際に秀吉は城攻めを行なわずに長期戦の構えで別の戦法で降伏をさせたわけですから、小田原城内は籠城戦にも強い経済活動を行っていたものと思います。 大坂城も基本的な考え方は小田原城と同じであり、真田丸の活躍は家康でさえも敵わずに和睦をしているわけです。 江戸城が出来たのはこの2つの城の後です。 江戸の町は海が入り込む浅瀬を埋め立てて出来た町です。 お堀や川で町ごと城を守る発想は同じ考えだったと思います。 もちろん江戸城は戦いには使われていませんので、経済活動については不明ですが、大坂城や小田原城以上の戦力であったと想像します。