どうして豊臣秀頼は現実的な生き残りのために徳川家に臣従しなかったんだと思いますか?それとも、どちらにしても徳川家康は難癖をつけて豊臣秀頼を滅ぼすつもりだったんでしょうか

日本史 | ドラマ527閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25

2人が共感しています

ベストアンサー

NEW! この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう

その他の回答(8件)

秀頼の意思というよりは周りの大人の都合でしょう >現実的な生き残りのために徳川家に臣従・・・ それを考えた人もきっといたはずです

大阪城と莫大な金銀があるし、家康は豊臣家の大老です。千姫を嫁がせたのを人質と認識したとすれば自分を格下と思うはずがありません。 家康も諸大名や朝廷への外聞があるので早い段階で秀頼が徳川に臣従すれば滅ぼしはしなかったでしょう。

小名や公家として生き残る道はあったはず。 秀頼のプライドが高いと。 当時の史料に書かれてます。

東軍についた豊臣恩顧の大名は多くが難癖つけて滅ぼされてますから秀頼が生き残るのは無理です。 夏の陣で大坂方の士気が高いとみるや家康は和議じゃ秀頼を助けると言い出し淀の妹を派遣。暑いなか散々待たされて士気が落ちた大坂方を見てから和議の使者を引き返させ総攻撃の命令。本丸も天守閣も燃えて最後に蔵に逃げ込んだ秀頼たちに助命を名目に淀の腹心の女官を呼び出し実はこれが家康のスパイで蔵の中に誰がいるか秀頼はいるか聞き出した上で秀頼がいるのを確信した上で周りから鉄砲撃ちかけて自殺を迫った。これが家康クオリティー。 助ける気などまったくナッシング。

公家の日記などの史料によると徳川と豊臣の融和策として茶々と家康の結婚話まで噂としてあったそうです。 その他史料と引き合わせるてみると、通説や逸話とは違い、茶々より秀頼とその周辺が対徳川で強硬態度だったそうで、側近たちも戦国体験が薄い者たちがが多くなってきていて、豊臣恩顧で側近として秀頼世代を支えられる戦国生え抜きだったものは豊臣秀次事件の連座で消滅しており、実際は領地経営に徳川家臣団の助力が必要だったほどに人材不足だった模様です。 秀忠も最近の研究では二代目としてとても優秀、戦争指揮官としてはともかく施政者として能力、政治力は家康に勝ると評価している研究者もいるほどに優秀であったと評されており、また、諸大名の信任も篤いものがあったようです。 武家とはいえ世を治めるには政治能力は不可欠で、極論としては戦に関しては優秀な家臣を雇えてまかせられます。 施政者に求められるのは戦術ではなく戦略能力ですから。 これはかのローマ帝国初代皇帝オクタビアヌスを後継者として遺言したユリウス・カエサルがオクタビアヌスは戦術眼がないと見抜いてあらかじめ優秀な武官を彼に就けていたことが良い例かと思います。 豊臣家は大河ドラマでも描かれていましたが、武家ではなく公家として存続することに了承していたならば生き残れていたでしょう。 にもかかわらず秀頼とその周辺は有体にいえば毛利綱広のように偉大なる父祖(秀頼でいえば秀吉)の威信や力を自分も発揮できると勘違い、過信していたのでしょう。 まだ時代としては新時代勃興時でいわゆる御威光(これは新参権力ならば実績と信頼を積み重ねてこそのものです)よりも個人能力も重要であったのに、そのような幻想に頼むところが大きく、本来の豊臣恩顧も生え抜きだからこそ個人的な感情は別にして領国施政者として秀頼に天下を委ねることができないと判断していたのでしょう。 自身を過信し、徳川の力、世の有り様を見誤っていた以上、身の程知らずに世の安定を揺るがす仇花と判断されたために摘まなければならなかったということが実態ではないでしょうか。