ワーテルローの時グルーシーとプロイセン後衛との位置関係。

ワーテルローの時グルーシーとプロイセン後衛との位置関係。 少し下にワーテルロー会戦のスレがあったので、昔から感じていた疑問点を質問いたします。 リニーの戦いではプロイセン軍を完全にたたけなかったためフランスはグルーシー侯爵に1/3に相当する軍勢を率いてプロイセン軍を捕捉させようとしています。 捕捉できないばかりか、一番悪いタイミングで主戦場にプロイセンは到着 しています。 結局グルーシーの別働隊とプロイセン軍の位置関係はどうなっていたん でしょうか。

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一言でまとめると、 「プロイセン軍が退却した方向を誤認したりして、手間取りながら追いかけていた。グルーシーが追いついたと思って攻撃した『プロイセン軍』は後衛部隊だけで主力はワーテルローへ向けて出発した後だった」 となります。 残念ながら日本語版wikipediaには入ってないですが、英語版のワーテルロー戦役のページ、http://en.wikipedia.org/wiki/Hundred_Days#Waterloo_Campaignに、大変わかりやすく状況を整理した図がついてます。 ↓を参照してください。 http://en.wikipedia.org/wiki/File:Waterloo_Campaign_Map.svg 英語ですが、要するに数字が時間(日付)を表していること、赤が英連合軍、黒がプロイセン軍、青がフランス軍だと分かっていれば、だいたい掴めるでしょう。 大事な地名は太字で書かれている以下の4つだけです。 Quatre-Bras:カトル・ブラ。英軍の集結目標点で、6月16日にネイ率いるフランス軍左翼との戦闘が行われました。 Ligny:リニー。プロイセン軍の集結地点で、6月16日にナポレオン率いる主力と戦闘が行われました。 Wavre:ワーヴル(本当の読み方は違うらしいですが)。6月18日、グルーシーの部隊がプロイセン軍の後衛と戦った場所です Waterloo:ワーテルロー。本当の戦場はワーテルロー村よりもう少し南方なんですが、世の中そんなものです。 一応補足説明しておきます。簡略化のために一部時間がずれることもありますが、概ねこんな感じで展開しました。 ●15日の午前(丸数字の1)にフランス軍はシャルルロワCharleroiへ進撃し、プロイセン軍前衛を攻撃します。 ●15日の午後(丸数字の2)、プロイセン軍前衛は主力に合流するために後退、プロイセン軍主力も前進します。が、英軍の動きはやたらに遅れます(http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/bruxelles.htmlなどが詳しい) ●16日午前(丸数字の3)、プロイセン軍の動きを見たナポレオンは自らこれを撃破することにして前進、カトル・ブラ方面はネイに任せます。デルロンの第一軍団(図中の青いI)が変な動きをしてますが、仕様です。 16日の昼にウェリントンはプロイセン軍司令部を訪問。ここでの会談の内容は通俗的にはプロイセン軍の配置が敵に丸見えだ直せよ云々となってますが、実際には違うようです(http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/brye.htmlなどが詳しい)。 ウェリントンの来援の約束を得たプロイセン軍は会戦を決意します。地図を見ると英軍の動きとまったくかみ合ってませんが、仕様です。 ●16日午後(丸数字の4)、リニーで死闘が行われます。ネイはなぜか攻撃を午後まで遅らせ(この方面のフランス軍に②と書いてあるのは間違いではありません)、このためカトル・ブラには英軍が続々と到着してフランス軍を食い止めます。 リニーではたぶん「おかしいな、なんで英軍来ないんだろう?」と疑問に思いながら戦っていたであろうプロイセン軍に対して、ナポレオンが総予備たる親衛隊まで投入して勝利します。 ナポレオンはこれでプロイセン軍の脅威はひとまず取り除いたと判断、グルーシーに2個軍団を与えて追撃させ、自らは英軍へと向かうことにします。 一方、リニーでプロイセン軍が敗れたと知ったウェリントンは、とりあえず負けてないけど撤退することにします。というか、地図の赤い④を見れば分かるように、まだ全然集合できてません。 プロイセン軍は英軍と合同するために北方のワーヴル方面に移動します。が、フランス軍はプロイセン軍は東方、本国に近いナミュールNamur(地図右下)へと撤退すると思ってたので、大分勘違いです(プロイセン軍の中にも東に撤退すると思っていた人がいて混乱が一部に生じてます)。 ●17日午前(丸数字の5)、ウェリントンはワーテルロー村の南方にあるモン・サン・ジャンの丘を利用して布陣するために後退。フランス軍主力もこれに遅れて移動します。地図には書いてないですが、プロイセン軍、グルーシー別働隊も引き続き移動したり迷ったりしてます。 ●17日午後(丸数字の6)、フランス軍主力はワーテルロー方面に行軍します。ただし、道路が悪い(雨でしたし英軍が行軍した後です)ので、大分遅れます(翌日の攻撃開始が遅れた要因のひとつとされます)。グルーシーはプロイセン軍の正しい位置を知って追撃を再開、ワーヴルに向かいます。 18日、ようやく英軍はワーテルロー付近に集結できました。プロイセン軍主力の三個軍団の来援の約束も得て、ウェリントンは決戦を決意します。 ●18日午前(丸数字の7)、プロイセン軍3個軍団(黒いI、II、IV)はワーテルロー方面に行軍。ワーヴルには押さえとして第三軍団(黒いIII)だけを残し、これをプロイセン軍主力と誤認したグルーシーと交戦します。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/20 14:56

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ナポレオンの百日天下の原因となった将軍グルーシー、リニーの戦いでプロイセン軍を破ったナポレオン軍、背走した敵軍(プロイセン)は東方向と思い込み、グルーシーに3万5千の大軍を割いてこれを追撃戦に向かわせる命令を下す。その2日後にワーテルローの会戦が起きる。早朝の雨に泥海と化した平原はフランス軍の大砲の移動を妨げ、ようやく昼ごろからナポレオン軍の攻撃が開始されたが、このロスが敵軍に陣形を整える余裕を与えた。当初はウェリントンのイギルス軍に優勢な攻撃をかけていたフランス・ナポレオン軍・・この会戦のとどろく砲声をいぶしがりながらも、グルーシーは命令を愚直に守り通しむなしくプロイセン軍の行方を捜し求めていた。この時、融通性、臨機応変の判断力がある将軍なら戦場に駆けつけるのだが、グルーシー頑なに命令を守り、尚敵影を求めて彷徨。ワーテルーローの戦場に駆けつけたのは、皮肉にも、そのグルーシーが捜し求めていたブリュツヒャー率いるプロインセン軍だった。夕闇迫る頃ナポレオン軍は完全に包囲され、壊滅した。ナポレオン軍の3分の1の兵力を率いたグルーシーの判断力の欠如、後世に、おバカな将軍と誹られた人物、或いは軍隊では命令は絶対的であってグルーシーの立場を擁護する意見もあり、賛否あるみたいのワーテルローの戦いだった。