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徳川家康、江戸の整備

ohnamadzuさん

2010/2/322:16:41

徳川家康、江戸の整備

単なる荒れ野だった江戸を大都市に整備した徳川家康はなぜ、大阪のように堀を整備しなかったのでしょうか。荒川を東へ移したのは氾濫による水害を防ぐ意図があったと思われますが、世界的にみて東京ほどの巨大都市に大きな川が流れていないのは不自然に思えます。安全保障上、首都は京都や奈良のような内陸に建設するのが常識ですが、東京湾に突き出る形で江戸の町を建設したのは首都としてだけでなく、明らかに港湾都市として整備しようとした意図が伺えます。そう考えると大阪のように町中に堀を作るのが合理的と思われます。高低差の激しい関東平野に堀は作れなかったのか、それとも他の理由があるのでしょうか?

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zero21keiさん

編集あり2010/2/511:43:52

江戸は質問者さんが考えているとおり、水運を中心に街作りがなされています。
また、当時100万人の大都市で、これはヨーロッパの主要都市、パリやロンドンの2倍以上の人口で、これを支えていたのは玉川上水に代表される「上水道」と、利根川、江戸川水系を利用した水路群にあります。
現在東京にある河川、日本橋川・京橋川・神田川・八丁堀川・・・・などは江戸の街を支える水路でした。

ただ、現在の東京に「水運の街」の印象が薄い原因は「江戸は現在の東京より範囲が小さかった事」と「明治以後、水路の埋め立てがあった事」だと思います。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b1/Edo_1844-1848_Ma...

リンクはwikiにあった江戸時代の地図です。西が上になっているので見にくいですが(画像ソフトで回転させて、 GoogleMapなどと見比べると面白いです)この地図をみる、と南は「増上寺」近郊が江戸の南端で、目黒不動あたりは完全に郊外であった事が解ります。
南側に大きく書かれている河川は「渋谷川(古川)」です。これをたどると、現在の渋谷・代官山・恵比寿辺りは「田」が点在しています。ですのでこの辺は江戸の郊外であったことが解ります。
「赤丸に西」と書いてある辺りは現在の明治神宮で、その周りに「田」というのが点在しています。 ですので「紀伊大納言殿」となっている現在の「赤坂御用地」、「尾張大納言殿」の屋敷があった市ヶ谷の「防衛省」が江戸の西になると思います。
北側は「赤丸に北」辺りは日暮里ですが、周りは田んぼしかありません。江戸の街としての北は「寛永寺」があった上野公園が北端です。
東に関しても隅田川以西が江戸と呼べる範囲で、荒川までいくと田んぼしかないことが解ります。

そして、現在の地図と照らし合わせると、ここに書かれている『水路」の多くが現在「高速道路」などの「道路」になっているのが解ると思います。(東京の地名で川もないのに「橋」が付くところが多いのがその名残ですね)

質問した人からのコメント

2010/2/10 20:56:15

成功 確かに江東区は未だに運河も残っていますし、東京の市街地が徐々に西へ移動したことも一因のようですね。

ありがとうございます。

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yok********さん

2010/2/913:56:28

堀はありますよ。
内堀と外堀
内堀は皇居の周り、外堀は首都高とか神田川とかだったかな

お堀はありませんか?
今でも堀もような痕跡は見られますし、干拓工事も当時でも盛んでした。
さすがに軍艦が通るわけでもないですし、普通のお堀なら見てとれます。
各藩に水路工事をさせていましたが、のちに完成しています。
歩いたりして、首都高速をよく観察してみてください。
(戦国時代なら天然の要塞といえます)

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