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薩摩藩による琉球侵略について。1609年島津家は3000の兵力で琉球に進攻し、4000の...

iya********さん

2010/5/100:56:15

薩摩藩による琉球侵略について。1609年島津家は3000の兵力で琉球に進攻し、4000の軍勢で迎え討った王国軍を破ったとあります。 しかし沖縄のグスクはどれもなかなか要害な感じですし、今帰仁城なんかは特に堅固な印象があります。琉球軍は何故あっさりと薩摩軍に降ったのでしょうか?交易の盛んな国なのに鉄砲や大砲は装備していなかったのでしょうか?沖縄版の関ヶ原や耳川のような大戦はあったのでしょうか?よろしくお願いいたします

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ベストアンサーに選ばれた回答

2010/5/101:38:12

無駄な抵抗はしなかったということです。でも何もしないで降伏したのではない。今話題の徳之島では頑強に抵抗したのです。しかし、頑強にとはいいながら大敗でした。薩摩軍が鉄砲を装備しているのに対し、徳之島軍は百姓一揆みたいな武器しか無かったのです。全然勝ち目がない。琉球王国には鉄砲など無かったのです。琉球王国は15世紀中国と東南アジアの貿易を中継して繁栄しました。琉球自体にはこれといった産品は無いのです。だから中継貿易で利益を挙げていました。ところが大航海時代にポルトガルが東南アジアに進出してきて、中国と直接取引きするようになったのです。そうなると琉球王国は締め出されて中継貿易が成り立たなくなりました。そうなって琉球王国はすっかり国力が低下していました。鉄砲を買う金もない。硝石もない。買ったところで使い道がない。それに対して薩摩藩は戦国時代を勝ち抜いて九州を統一しようかというぐらいの歴戦の雄でした。戦ったところで勝負にならないのは明らかでした。そして、琉球軍が無駄な抵抗をしなかったのには、もっと大きな理由がある。それは薩摩藩が琉球に侵攻した目的が琉球を服属させることだけで、略奪でも琉球占領でもなかったことです。だから無用な虐殺、放火、略奪などの蛮行は一切働かなかった。薩摩藩は武力抵抗する勢力とは戦ったが、潔く降伏した勢力には何も手出ししなかった。だから琉球王も薩摩藩の目的は交渉にあるのだと気づいたのです。であれば無駄に戦う必要はない。だから無駄な抵抗はしませんでした。琉球には戦ってまで守るべきものなど何も無かったのです。

質問した人からのコメント

2010/5/7 23:25:38

「無駄な抵抗はしなかった」という部分に納得です。たしかに戦国時代をしぶとく生き延びた島津家、また背後にいる徳川と争っても勝ち目はないですね。各地のグスクに立て篭もって抵抗すれば薩摩軍も手を焼くだろうと思いましたが、それは琉球を滅ぼしにかかって来たような場合ですよね。有効な武器や兵力があったかどうか、皆様の意見は割れているようですが、納得という部分でBAとさせていただきます。ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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sur********さん

2010/5/102:04:50

最初の方、それは19世紀の話でしょう。
ナポレオンの時代の琉球に武器が無かったのは薩摩の支配下で軍備が制限されていたからです。
そもそもその言葉はナポレオンではなくベイジル・ホールのものですし。

よく言われる『百浦添之欄干之銘』の一文、
「専ら刀剣弓矢を積み、以て護国の利器となす」
これは武器を集めて国防の体勢を整えたという意味であり、
所謂“刀狩り”のようなことを行ったという意味ではありません。


さて、
琉球は薩摩の鉄砲による攻撃であっさり開城してしまったそうですが、
この敗因は鉄砲の違いによるのではないかと思います。
『朝鮮王朝実録』によれば、15世紀中頃の琉球にはすでに火器があったようですが、
これはどうやら中国式の“火矢”であったらしいのです。

vio********さん

2010/5/101:44:24

琉球王国に武器や軍隊がなかったというのは誤りです。
鉄砲も種子島に伝わったとされる1543年より100年近く前から保有していましたし、また、15世紀には奄美諸島に2000名以上の軍隊で侵攻し、琉球王国の支配下に置いています(沖縄ではこれを武力侵攻・侵略とはいわず「遠征し凱旋した」と呼びます)。その後も武装兵は王城や貿易船の警護に当たっています。
薩摩に大敗したのは、戦国時代を生き抜いた歴戦の薩摩軍が強すぎたからと考えるべきでしょう。

kin********さん

編集あり2010/5/101:37:26

大河ドラマ「琉球の風」から引用します。ナポレオンの言葉に、「東洋には武器を全く持っていない国がある。」という言葉があります。沖縄のことです。島なので他国からは攻めにくかった為、武器が必要なかったのではないでしょうか?庶民も刃物といえば、斧や鍬などの農具しか持っておらず、首里城明け渡し前の薩摩からの攻撃に応戦するのも大変だったようです。是非、「琉球の風」御覧になってみて下さい。★大いくさがあったかどうか…沖縄公文書館、首里城公園、琉球大学、鹿児島側の尚古集館等にお問い合わせなされてはいかがでしょうか?

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