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関ヶ原の戦い

sai********さん

2010/8/514:33:43

関ヶ原の戦い

関ヶ原という司馬遼太郎氏の本を読みました。
その中では、徳川家康が上杉討伐の為北征しているとき、あくまで石田三成が反乱をおこさせるための罠という風に、三成が反乱をおこすことを家康は予知していました。

しかしある漫画では、家康は三成が反乱をおこしたことをしると「なにー、あの石田三成が----」と全く予期していないような感じでした。

史実ではどうなんでしょうか?
そこら辺は解釈の問題なのでしょうか。

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ベストアンサーに選ばれた回答

nin********さん

編集あり2010/8/523:00:04

早い話が、家康は三成の挙兵を予想していたという説、していなかった説の両方があるということです。

史実で厳密に特定するのは難しいと思いますが・・・。個人的にはこう解釈します。

・三成は奉行職を追われ、佐和山に蟄居している。豊臣政権における影響力は失われた。
・毛利輝元が西軍の総大将になったことで、西軍の規模が東軍に匹敵するまで膨れ上がった。
・大坂城が西軍の手に落ちたことで、家康は豊臣秀頼に対する謀反者の扱いになった。

つまり、三成は何もできない状態であることがひとつ。そもそも最終的に三成を蟄居させたのは家康です。

そして、もし家康が三成の挙兵を予想していたのなら、毛利を敵に回したり、大坂城を簡単に奪われるような致命的なミスを重なるでしょうか。あらかじめ手を打って三成挙兵を小規模なものにとどめておけば、容易くひねり潰すことができます。上杉討伐の時点では、家康は実質的に天下人になったに等しく、だからこそ諸大名を上杉討伐に動員することができました。そうやってライバルを屈服させていけば、大きなリスクを冒すことなく豊臣政権を簒奪できたのです。

果たして、家康に関ヶ原の戦いのような大ばくちが仕掛ける必要があるのでしょうか?関ヶ原の戦いが一日で終わったので誤解されがちですが、普通に考えれば毛利が味方した西軍を短期で倒すことは困難で、負ける可能性すらあります。逆に石田三成、あるいは宇喜多秀家には大ばくちを仕掛ける必要がありますが。

ですから、僕は三成挙兵を予想していなかった説に分があると思います。予想していた説をとるにしても小規模な挙兵と高をくくっていたが、実際は「上方がいっぺんに敵になり」という想定外の規模だった。どちらにせよ、家康は狼狽したものと思います。

質問した人からのコメント

2010/8/8 16:08:22

笑う なるほど

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kan********さん

2010/8/609:06:07

『天地人』でも家康は三成挙兵に驚いていましたね。
「予知」は江戸時代に作られた「伝説」であり、割と一般に
知られている流れだとは思います。

しかし、伏見城と大坂城を西軍に奪われている点だけみ
てもとても「予知」していたとは思えません。
誰かが挙兵する可能性は、当然為政者ならある程度は
考えているはずです。ただ、それと「予知」は別です。
江戸に滞在した家康のお手紙作戦も「予知」できていな
かったことを物語っています。

三成挙兵の噂もあったようですが、三成も前田の家康暗殺
計画を通報したり、蟄居中で出陣できない自分に代わり、
嫡男を会津征伐に向かわせる約束をするなど、家康に信用
されるための手を打っています。

三成と大谷の謀議は大坂の奉行や淀殿が通報しています。
家康は書状で大坂の奉行衆は味方だと信じているのですが、
のちに彼らが家康弾劾状を発することになります。毛利や宇
喜多も会津征伐へ兵を出していました。家康の認識では、
いきなり「西軍が大挙兵した」ではなく、「三成と大谷が謀議」
から「毛利や宇喜多も加わったらしい」、さらに「大坂奉行衆が
寝返ったらしい」という段階を踏んでいたと思われます。

大坂城と秀頼を奪われて、弾劾状で逆賊にされた家康。そ
れをお見通しの上で東軍の諸将は自分に味方すると信じて
いたならたいした度胸ですが、博打がすぎると思います。
関ヶ原は、まるっとお見通しの家康が勝つべくして勝ったので
はなく、クーデターにより謀反人とされ、窮地に陥った家康の
大逆転劇だと言えます。

hig********さん

2010/8/520:28:40

実際に三成が挙兵するかどうかはともかくとして、三成挙兵は当然に予測の範囲内だし、対策も立てていたでしょう。そうでなければ天下など取れっこありません。もっとも、何らかの理由でさも予測してなかったようなポーズを取る可能性はありますけど。

zun********さん

2010/8/517:46:52

石田と上杉がどこまで連携できていたか、というのが、ひとつ疑問視
されるところです。

挟撃といっても、上杉領には越後、山形、仙台から東軍諸将が
うかがっているし、景勝は長期化をにらんで出戦しなかったのではなく、
出来なかったと考えられます。

そうなると、石田三成は家康の手のひらで踊らされたといえます。

それと、漫画の表現はけっこう解り易くというのが多いと感じます。
ブームに乗っけて出した風な作品だと特に顕著です。
どんな作品をご覧になったか存じませんが、このあたり、解釈の問題
だといえます。

thy********さん

編集あり2010/8/518:07:25

関が原の戦いは三方ヶ原の戦いに似てます
隙を見せて誘い出す信玄の誘い出し戦法を会得したのが敗れた家康だったということですかね
関が原を仕組んだのはまず家康でしょう
三成は家康に踊らされて挙兵した

the********さん

編集あり2010/8/516:14:23

会津に出征した家康を、石田三成と上杉景勝で挟撃するという作戦があったとされています。

三成とともにその作戦を練ったのは、景勝の重臣・直江兼続(なおえかねつぐ)でした。家康が景勝に上洛するように言うと、兼続は、「会津を攻めれるもんなら、攻めてみろ」という挑発的な書状を送りました。これが有名な「直江状」です。

これに激怒した家康は、軍を発し、三成の作戦通り挙兵しました。

しかし、家康が挙兵した理由は、景勝を討つのが目的ではありませんでした。実は、三成に隙を見せて、徳川打倒の兵を起こさせるのが本当の狙いでした。このような家康の罠によって、関ヶ原の戦いが仕掛けられました。
つまり、家康の方が、一枚上手だったのです。

そして、家康は、関ヶ原の戦いでの勝利を確信していたのではないかといわれています

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