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名古屋城を「江戸城に次ぐ最大規模の城」という表現を見ますが、その根拠は何なの...

il2********さん

2010/9/1820:01:20

名古屋城を「江戸城に次ぐ最大規模の城」という表現を見ますが、その根拠は何なのでしょうか。広島あたりの研究家が、名古屋城天守を史上最大と決め付けていることと同じ根拠なのでしょうか。

この研究家は延床面積が日本一だと断りを入れてはいますが、一般常識的には、「高さ」が天守の大きさ尺度だと思うので、主張に無理が有ると思います。「縄張り」的にも(面積的にも)史上第二位の規模だったのでしょうか。御三家とは言えまた関ヶ原の備え城だったとは言え、将軍家にたてついた尾張家に、二位といえる城郭が許されたのでしょうか。二位の根拠を教えてください。

私見では、幕府の西国監視の拠点である、いわば幕府の西日本支店である大坂城が江戸城に告ぐ最大城郭であったはずだと思うのですが・・・。

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iwa********さん

2010/9/1822:36:34

当初計画では名古屋城は江戸城を上回る、史上最大の城になる計画でした。
途中で工事が中断され、現在の規模に終わりました。
基本的に大阪城は徳川の出城であり、西軍を足止めさせる為の城ですから、守りは強固であっても規模はいりません。
一方で名古屋城は東軍を集結させる城ですので、防御力よりもむしろ東から集結した全軍を収容する役割がありました。
そう言う意味では規模が必要だったかと思われます。

質問した人からのコメント

2010/9/18 23:42:18

なるほど、大坂と名古屋、役割が別だったのですね。「防御」と「攻撃」の役割の違いが、「大坂城の三重櫓の多さ」、「名古屋城の縄張りの広さ」の違いに出ているのですね。明解ですね。

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ktr********さん

2010/9/1821:14:28

二位の根拠は徳川御三家筆頭であることも根拠の一つです。名古屋は徳川家康の9男、徳川義直が初代藩主であるということは、ご周知のとおりですが、名古屋は地理的にあなたの言う通り西国監視の拠点てありましたが、大坂冬の陣、夏の陣ともに、徳川幕府の大坂攻撃の休息、補給、中継基地でありました。つまり前線基地であったわけです。

また、石高においても、ほかの親藩、譜代よりも比較にならないほど大きく表高は65万石でした。(石高の数値については時代によって変化がありますけど・・)

将軍家と対立するようになったのは、明治維新直前で、ちょうど14代将軍家茂~15代将軍慶喜のころで、戊辰戦争では倒幕派につきました。これは将軍擁立において、井伊直弼らと対立したためといわれています。

ですから江戸時代を通じては、城の規模、格式いずれも江戸に次ぎ、第二位であったのです。

あと、お城の規模なのですが、天守の高さもさることながら、お城全体の面積(縄張り)で表現することも多いのです。また、現代では、現存している面積でも表現することも多いです。

kar********さん

2010/9/1820:30:47

最大規模に次ぐという表現は単独二位という意味じゃないだろ。二位と示した資料があるならそこに訪ねるといい。

天守閣の尺度についての一般常識などない。あなたの見解があるだけ。

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