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本で読んだのですが、理解しにくい文献だったので、ここで質問します。

ved********さん

2010/10/1319:12:37

本で読んだのですが、理解しにくい文献だったので、ここで質問します。

鄭和の大艦隊がアフリカ東側まで、遠洋航海をしたにもかかわらず、明国が保守的、閉鎖的、伝統的文化を持つようになった原因を教えてください。お願いします。

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ベストアンサーに選ばれた回答

南山愚翁さん

2010/10/1409:34:16

永楽帝が望んでいたのは主に国威発揚です。ヨーロッパの国々の様に資源を求めていた訳ではありません。

明が保守的になったのはそれ以前の歴史の流れの結果でもあります。宋代までの中華帝国はまがりなりにも自己変革をしようと努力していましたが、王安石の変法失敗後はその意欲も失われ、文明の活力も無くなってゆきます。元朝を積極的な面からみれば中華にエネルギーを充填したとも言い得ます。しかし極保守的思想を持つ朱元璋が最終的に中華を制し、商業発展には欠かせない元朝の経済官僚を皆殺しにした事からも中華は宋代の失敗、元代の不遇を経て変革する意思を捨て、安定のみを求めると言う結果となりました(朱元璋が「若し王安石がまだ生きていたならぶっ殺してやるのに」と言っていたように変革を嫌っています)。朱元璋の国造りを黄仁宇と言う史学者はユートピアを目指したとし、漢代の社会の復興を意図していたと主張しています(政治に理想を持ち込み過ぎたとも)。実際明の制度は商業に対する完全不干渉、明朝を通じて効率的な財政部門と財政政策を持っていなかった事から時代の流れと逆行するものであり、モンゴル帝国によって整備された貿易を更に発展させるような意思は全くみられません。明清共に現状維持に汲々としています。支配者達が求めるのは自身の権力保持であり、社会の発展は二の次だったと言えます。

そして朱元璋の後継者として永楽帝も父と同じ様な政治を行っており、恐怖政治の度合いは実質上朱元璋以上とも主張もあります。中国は人が多過ぎるので現状維持だけでも一苦労だったでしょうが。

大雑把に言えば宋代以降、中華帝国は更に変化しなくなったのであり、明が陰鬱に見えるのは必至であったという事です。詩文はなかなかのものですし、面白い事件も結構ありましたがネクラなイメージは払拭できませんね。古代からの中華文明の欠点が噴出しはじめた時代でした。

質問した人からのコメント

2010/10/17 20:29:21

成功 なるほど。。ちょっと難しいかったですが;、流れとてもわかりやすくて助かりました。
ありがとうございます。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

2010/10/1322:38:14

鄭和に遠征を命じたのは永楽帝です。靖難の変という反乱に勝利し、皇帝に即位します。一説(宮崎市定)によると、永楽帝は元のフビライを理想にして、明の影響力を外へ外へと広げようとします。靖難の変で行方不明になった皇帝(建文帝)の捜索という目的もあったようです。

しかし永楽帝の跡を継いだ洪煕帝は、父の対外膨張政策を放棄し、内治を優先しようとした矢先、急死します。

その跡をついだ宣徳帝は、祖父永楽帝の血を色濃く受け継いだなかなかの人物だったようです。鄭和に最後の遠征を命じますが、明の勢威もここまで広まれば十分と考えたのでしょうか、以後は国内の安定を目指します。永楽帝が財政を顧みずに対外政策を進めたため、これ以上の膨張は無理だと判断したのでしょう。その他にも、直接統治下に置いたベトナムも、直接統治をやめ(ベトナムの反抗が根強かった)、「無理のない」統治を、宣徳帝が目指したため、と回答させていただきます。

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