実際、秋山真之参謀と黒島亀人参謀はどこが違っていましたか?

実際、秋山真之参謀と黒島亀人参謀はどこが違っていましたか? 自分が思うのですが、やはり秋山参謀の場合実力もそうですが、勝ったから神格化されたんですよね?結構、ヘマしてる感じがあるので。黒島参謀の時は負けたから過小評価なんでしょうか。やはり、特攻やミッドウェーなど大きい失敗が原因ですかね。

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秋山真之 # 参謀としての秋山の功績は、長らく東郷平八郎の影に隠れ、広く一般に知られている人物とは言い難かったが、戦後島田謹二『アメリカにおける秋山真之』(初版昭和44年)によって紹介され、司馬遼太郎が発表した歴史小説『坂の上の雲』(初版昭和47年:1972年)で主人公になった結果、国民的な知名度を得ることになった。 黒島亀人 真珠湾攻撃を立案 真珠湾攻撃はめざましい成果を挙げたが、源田、黒島が訴えた反復攻撃の主張は南雲長官に退けられた。結果的にオアフ島の軍事施設や燃料タンクは温存され、また米軍空母エンタープライズはオアフ島西方360浬、空母レキシントンはミッドウェー南東720浬の洋上といずれも近距離におり、このことが太平洋艦隊の立ち直りを非常に早めることとなった。 ミッドウェー海戦立案 真珠湾攻撃を巡る戦術で大きく貢献した黒島は、1942年6月のミッドウェー海戦でも作戦を立案。十余りに分けられた艦隊、船団が別の場所から異なった時間にミッドウェーを目指すという精緻かつ複雑な作戦を立てたが、米軍側に暗号を解読されていたこともあり、圧倒的に有利だった戦力差を生かすことができなかった。これは作戦を複雑にしすぎた結果、戦力を分散させてしまうという戦術の致命的な誤りだったとの指摘もある。さらに米空母部隊が待ち伏せ攻撃をしている、という重大情報を黒島が無視したことも日本軍敗北の一因とされる。ミッドウェー以降も黒島は同じ失敗を繰り返したものの「黒島だけが思いもつかぬ発想をする」と山本五十六は黒島をかばい寵愛を続けた。但し末期の山本は恣意的に黒島を排除していたとする意見もある。 1943年4月、山本五十六の乗機が撃墜された(海軍甲事件)。黒島はたまたま腹を下して乗り合わせなかったとされるが、デング熱から回復したばかりの宇垣纏は同行している。山本の死を境に黒島は人間を武器にするという「特攻」という手段を発案したと言われる。 特攻を発案 1943年7月、4年以上も務めた連合艦隊首席参謀から、軍令部第二部部長に就任。軍令部は海軍の全ての作戦の構想を練る大本営の中核組織で、第二部は兵器の研究を担当していた。「黒島が軍備担当の責任者に就任したことは、海軍が特別攻撃を採用するうえで決定的な意味を持つことになった」と指摘される。事実、第二部部長就任前に、黒島は軍令部に出向き「モーターボートに爆薬を乗せて敵艦に体当たりできないか」と語ったという。 部長就任後はますますそれに傾斜、狂気へ向かって暴走する。同年8月、海軍首脳会議の席で黒島は、必死必殺の戦を行なう必要があるとし、その一例として、戦闘機による衝突撃(航空特攻)の戦法を挙げている。黒島の登場によって海軍の戦備は総特攻化に向かって歯車の回転が始まる。近年、海軍反省会などの関係者の証言で、特攻の発案者は黒島、主導したのは黒島と、軍令部第一部部長・中澤佑少将、源田実という見方が強まっている。翌1944年3月、黒島率いる軍令部第二部が、その他特殊奇襲兵器の試作方針を決定。潜水艦攻撃用潜航艇、対空攻撃用兵器、可潜魚雷艇、船外機付き衝撃艇、自走爆雷、人間魚雷、電探、電探防止、特攻部隊用兵器の九つで、このうち人間魚雷は「回天」としてこの年2月から試作が始まっており、可潜魚雷艇は「海竜」として、船外機付き衝撃艇は「震洋」として、特攻部隊用兵器は「震海」として実際に試作され、「震洋」「回天」は実戦でも相当数が使用された。その後、ロケット特攻機「桜花」の推進や人間機雷「伏龍」も黒島の発案によるものとされる。軍令部は海軍省にこれらの兵器について緊急実験するよう要望。また艦政本部はこれらの兵器の研究、試作のため、各兵器にそれぞれの仮称を付け、担当主務部を定め、特殊緊急実験を急いだ。同年10月、レイテ沖海戦にて大西瀧治郎中将によって「神風特別攻撃隊」の出撃命令が発令され、特攻攻撃が開始される。そして、終戦までに特攻で散った若者は9500人以上にのぼることとなった。 戦後 1945年5月、軍令部第2部部長を辞し、その後は大本営の海軍参謀兼軍令部先任として終戦までを過ごした。多くの軍人と同様、本土決戦を主張し1億玉砕を唱えた。しかしデスクワーカーとなっていた黒島は、敗戦後も戦争犯罪を問われず、自決するわけでもなくその後天寿を全うした。麹町の広大な旧鍋島侯爵邸に住み哲学、宗教の研究に没頭したが生きる屍同然であったと言われる。旧友が訪ねてくると「今、俺は宇宙、人間、生命の研究をしているのだ。最近ついに『零の研究』をして悟ったよ」と言って煙に巻いた。1965年、肺癌のため没。享年72。その遺言は『南の島に飛行機が行く』であったという。

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