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玉砕地への指令とやり取りについて

mot********さん

2011/4/122:18:28

玉砕地への指令とやり取りについて

サイパン、硫黄島など玉砕した場所ではどのような指令が本部から伝わって、どのようなやり取りがあったのでしょうか?

武器弾薬の補給もないまま、反論することなく、帝国軍人として玉砕覚悟で戦い抜きますみたいな承諾したのでしょうか?

ドイツでも末期は苦しかったでしょうから、似たような指令はあったかと思います。

こういったやり取りについて、英米独ソ仏など各国に違いはあるでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

eis********さん

編集あり2011/4/804:00:40

太平洋戦争中盤以降の日本軍の場合、撤退不能の島嶼戦で戦況が不利になったら、個別の指示を待つまでもなく玉砕が当然の前提でした。最後の総攻撃を実行するとの予告と、通信機や暗号書を処分するという報告が、事実上の玉砕報告になります。例えば、ペリリュー島の戦いでは、通信機等の焼却を意味する暗号文「サクラサクラ」というのが事前に決められていました。
硫黄島の戦いでも、1945年3月17日に最後の総攻撃実施予定の電文が現地から届いたため、大本営は同日をもって硫黄島玉砕を発表しました。ただし、硫黄島では実際の総攻撃は3月27日に行われたので、本当の玉砕前に報道がされたことになります。

一方、撤退やさらなる持久の余地がある場合、死守=玉砕を巡るやり取りがあることもありました。マニラ市街戦や沖縄戦の小禄攻防戦では、死守する構えの守備隊に対して、包囲を突破して脱出せよとの命令が上級司令部から出ていますが、現地指揮官が脱出不能だからと拒絶しました。
現地部隊側から撤退許可を求める場合、食糧弾薬が尽きてどうしようもない状態と報告する、あるいは別の地点に攻撃に出る方が有利と意見具申をするような、婉曲な言い回しが使われました。はっきりと撤退させろと言うケースは、珍しいと思います。
変わった例で、ビルマ戦線のミートキーナでは、守備隊司令官の水上少将が赴任するときに、司令官個人宛の死守命令が出されました。これは普通に部隊宛の死守命令だと玉砕になるから、司令官の犠牲だけで済ませて部下は撤退できるようにという方便だったと言われます。

また、玉砕を避けるための降伏許可を暗に求めたのではないかと思われる事例も無いわけではありません。1944年に、日本軍3千人が玉砕したアドミラルティ諸島の戦いがそれです。
3月上旬、米軍4万5千人が上陸して絶望的な状態となった時、別の島にいた上級司令部の第8方面軍(今村均中将)は、現地部隊に玉砕を前提とした最後の総攻撃命令を出します。しかし、守備隊司令官は、命令を無視して持久戦を続けました。
5月1日、守備隊司令官は、生存者が半数となり「全員装具食糧なく、守備隊の行動に関し、軍の指示を仰ぐ」との通信を送ります。撤退不能な島ですから、事実上は降伏許可を求めたものと考えられます。この通信は確かに第8方面軍に届いたのですが、なぜか返信の有無・内容は記録が残っていません。
上の5月1日の電文が記録上最後のものとなり、現地との通信は途絶しました。第8方面軍や大本営では5月末日をもって玉砕と判定しています。なお、書類上は5月末日に守備隊全員戦死として処理されましたが、まだ生存者は残っており、終戦後に発見されて生還した方もわずかにおります。

日本以外の場合、ソ連では、1942年に「ソ連国防人民委員令第227号」として撤退を禁止する死守命令が出されていました。そのため、不利な状況で通信が途絶した場合には、前線指揮官の独断で撤退するか降伏するか、命令通り戦い続けるかのいずれかになったようです。戦い続けても救援が来なければ、結果的に全滅ということになるでしょう。

追記:アッツ島のケース
一般に最初の玉砕戦とされる1943年のアッツ島の戦いでは、増援が事実上断念された時点で、現地守備隊に対し、救出の努力はするが最悪の場合は玉砕するよう個別の命令が出されています。時系列で主要なものを整理すると以下の通り。ほかに一般的な戦況報告や増援依頼、激励文などが多数ありますが、詳細は参考資料を参照のこと。
5月12日 米軍上陸。
5月20日 大本営はアッツ島の防衛を断念。
5月23日 北方軍司令官より、アッツ島へ玉砕の覚悟を求める電文。「~万策を尽して人員の救出に努むるも~最後に至らば潔く玉砕し、皇国軍人精神の精華を発揮する覚悟あらんことを望む」
同日 アッツ島より返電。「国家国軍の苦しき立場は了承した。戦をする身として、もとより生死は問題ではなく、守地よりの撤退も将兵一同望むところではない」旨のもの。
5月29日 アッツ島より、直接の上部組織である北海守備隊宛(在キスカ島)に以下の4通の最終電文。(1)負傷者を自決させ、最後の総攻撃を行う。(2)機密書類・通信機を処分した。(3)総攻撃の予定地点通知・戦果確認の依頼。(4)「従来の懇情を深謝すると共に閣下の顕彰を祈念す」
(参考:防衛庁防衛研究所戦史室「戦史叢書 北東方面陸軍作戦(1)アッツの玉砕」(朝雲新聞社、1968年))

質問した人からのコメント

2011/4/8 11:55:36

詳しい説明ありがとうございました。玉砕って前提なんですね。

ベストアンサー以外の回答

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ucw********さん

2011/4/123:26:39

作戦を指揮するにあたって、司令官並みに権力があったのは大本営から派遣された参謀と呼ばれる作戦を立案する人々です。
当時の軍人たちの精神には、「天皇陛下をお守りして死ぬことこそが本分」のような思想が兵学校時代より植えつけられていたとされています。参謀は軍内部でも超エリートですのでほぼ全員兵学校を卒業していたと考えられます。
つまり、「天皇の為なら何でもできる」と普通に考える人が作戦を立案するのですから、反論するなど彼らの頭には存在しなかったのです。兵学校をでていない下士官には権力もありませんしね。

そもそも日本に当時あった通信機は脆弱で、東京から前線に指令を送るのも大変だったのです。そこで参謀が中央から派遣される。そのようなやり取りがあったらしいです。

ドイツは、あまり聞いたことがありませんね。
たとえば、東部戦線最大の戦いであるスターリングラードの戦いでは、ソ連軍に包囲されたドイツ軍は、抵抗はしましたが、結果降伏しました。日本のガダルカナルのように玉砕はしていません。
ただ小部隊が特攻を仕掛けることはあったんじゃないでしょうか。

そして、最大のポイントは玉砕なぞというものは連合軍ではナンセンスな点です。
連合と枢軸の最大の違いは、自軍の兵士への待遇です。
枢軸は、「貴様が死んでも替えはいる」のごとく無謀な作戦を立案しますが、連合軍にとって兵士の命は第1に守られなければならないものなのです。ですから連合軍に「玉砕しろ」みたいな指令は出なかったはずです。

ごちゃごちゃして申しわけありませんがご理解いただけましたか?

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