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武田勝頼が、東美濃に援軍を送らなかったのには理由があるのですか?

rit********さん

2011/9/1723:13:37

武田勝頼が、東美濃に援軍を送らなかったのには理由があるのですか?

東美濃だけでなく、高天神城などの遠江の拠点にも援軍を出し渋ったそうですが、
これにはちゃんとした理由があるのでしょうか?
また、東美濃のような場所を占領しても経費がかかるだけで、戦略上好ましくなかったともいえるのでしょうか?
武田本国から遠く、道が悪く、補給も難しかったのでしょうか?

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編集あり2011/9/1723:58:44

そりゃあ、勢力が減退した武田には援軍を送るのは負担が多すぎて無理でしたね。
東美濃からは撤退すべきだった。

そもそも、武田信玄が武威を誇ってた頃ならともかく
勝頼の代になって、東美濃の城を領有し続けるのは
織田家を刺激しすぎるだけで不利なだけです。

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mil********さん

編集あり2011/9/2300:14:55

長篠・設楽原の戦いに敗北したため、武田家の西方領の支配力は揺らいでいました。質問者様の指摘するとおり、遠国への補給は難しいことだったでしょう。
そんな状況下にあって、武田勝頼は御館の乱で同盟関係にあった北条家を裏切って上杉景勝に味方し、その代償として二万両ともいわれる黄金と、北信濃四郡と東上野を譲渡されました。
しかしながら、東上野はいわば上杉家における不良債権であり、譲りました、はい、では今日からここは武田家の領土だ、といわれたところで、この地の領主たちがすんなりと武田家の家臣になるはずもありません。北条家からみれば上野国は北条家の支配下にあったものを、越相同盟締結で北条一族の上杉三郎景虎が謙信の養子となり、将来は関東管領職と共に譲られるのだから謙信に譲渡したものであり、謙信と景虎が亡くなった以上、その領有権は北条家にある、と主張しました。
そこで当然のことながら、北条家と武田家は上野国の支配を巡って争うことになります。真田昌幸の奮戦と調略もあり、武田家に有利な事態となっていたので、勢い兵力もこちらに多く向かわせることとなり、勝てる見込みの低い高天神城への援軍は遅れがちとなりました。

武田信玄の優れていたのは、戦に勝つ武将というだけでなく、外交と調略を駆使して敵を味方にしてしまう点でした。かつて甲相駿三国同盟を結び、背後の憂いをなくしたことで信濃攻略を実現しました。今川家衰退に乗じて駿河と遠江に侵略したことで北条家と敵対、北条家が上杉謙信と同盟すると、兵力を巧みにあやつり、外交で揺さぶりをかけてこの同盟を破棄させ、北条と武田の同盟を復活させました。こうして再び背後の憂いを無くしたから、上洛への道を進んだのです。
それを勝頼は目先の利に惑わされ、長大な国境線を接する北条家を安易に敵としてしまいました。上杉家とはもともと川中島だけが戦場になりえたので、海津城だけを固めれば十分対応できたのに対し、上野から伊豆に至る場所に兵力を割かねばならなくなったのです。
それも高天神城へ援軍を派遣できなかった原因でした。

勝頼の裏切りによって上杉景虎が自害したのが1579年3月24日。
そして高天神城が降伏開城を拒否され、兵たちが絶望的な最後の出撃を行い、落城したのが1581年3月22日。さらに勝頼が織田信長によって天目山で自害に追い込まれたのが1582年3月11日。偶然でしょうけれど、怖い数字の一致です。(ちなみに1580年3月24日には上杉家の重臣で魚津城の城主であった河田長親が亡くなっています。彼は上杉謙信に美貌と才気を愛でられた寵臣であり、対織田の最前線を担っていましたが、最後の最後になって景勝側に付いたため、景虎の敗北を決定づけた武将です)

pri********さん

2011/9/1806:07:43

信長におされて、ジリ貧状態、勝頼無能な人だと断定できるのか、分かりませんが、ようは武田氏にそれだけの体力ないと言う事では

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