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岡林信康とはっぴいえんどの関係について教えてください。

zyu********さん

2011/11/1014:42:49

岡林信康とはっぴいえんどの関係について教えてください。

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ats********さん

2011/11/1316:49:12

師匠(岡林)と弟子(はっぴいえんど)でしょう。

当時、はっぴいえんどの四人組(大瀧、細野、松本、鈴木)はバンドを作っては壊し、の状態で「日本語のロック」というスローガンは掲げたものの、実態はアマチュアの域を脱していませんでした。
当時の業界人からすれば、岡林に弟子入りして、初めてプロと認識された次第というものでしょう。

まあそれでヒットに繋がるほど芸能界は甘くなかったのですが。(「A LONG VACATION」「YMO」「木綿のハンカチーフ(松本作詞)」まで長い年月を要しました)

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kzw********さん

2011/11/1421:00:51

歌手とバックバンド以上の関係ではありませんでした。

彼らが組むことになった経緯は,先に gugyann 様が書かれている通りだとおもいます。しかし,もちろん岡林ははっぴいえんどのことは何も知らず,細野晴臣と松本隆は岡林を知ってはいたけれど,音楽的には全く評価しておらず,大滝詠一にいたっては,岡林が何者か全く知らなかったそうです。しかし,岡林が小倉エージ(当時は小倉栄司)に連れられてはっぴいえんどの練習を見学に言った時に興奮して「これや,ワシのもとめとるんは」と言っていたようですから,彼は気に入ったのでしょう。

アレンジははっぴいえんどに任されていたようです。あとはせいぜい岡林が腕を挙げたらエンディングの合図とか・・・そんな具合で取り決めもほとんどなかったそうです。その後,はっぴいえんどや解散後の彼らの音楽に岡林が影響を及ぼした形跡はほとんどありませんし,その後の岡林にもはっぴいえんどの影響は見えません(どちらかといえば元はっぴいえんどよりムーンライダーズのメンバーとの共演の方が多かったし)。

はっぴいえんどにとっては「お仕事」の意味合いが非常に強かったようですし,特に共演したことによるメリットはなかったようです。当時の価値観からすると「男のくせに髪の長い」フォーク・シンガーなど,いくら若者の間で人気があったって,ザ・芸能界で認められる存在ではありません。一部例外を除き,メジャー・レコード会社が日本のフォークやロックに積極的に手を出すようになったのは(=商売になりそうだと判断された),この2,3年後です。それでも,以前から所属してた歌謡曲の歌手やスタッフからは「あんな髪の長い連中と仕事をするのは嫌だ」と言われていたそうです。


細野晴臣はその後岡林との接点はほとんどないようですし,当時共演したフォーク・シンガーで思い出深い人として細野が名前を挙げるのは高田渡と加川良であり,岡林のことはこの時の共演以外にはほとんど名前が出てきません。

大滝詠一は岡林の「家は出たけれど」を彼の敬愛するクレイジー・キャッツ的な要素を含む歌として評価しているようです。(そんな彼も当時のフォーク・シンガーで一番思い出深い人は高田渡だと言ってましたが・・・)。

その後一番関連が深かったのは松本隆です。彼は後に「岡林と共演しているときが一番肉体的に解放され,ドラムと一体化できた」というような発言をしています。演奏自体は楽しかったんでしょうね。そういえばはっぴいえんど解散後 70 年代前半に松本隆は岡林のアルバムをプロデュースしていますが,そのような想いがあった故かもしれません。

gug********さん

編集あり2011/11/1110:28:45

岡林信康とはっぴいえんど、という取り合わせは、ザ・バンドとボブ・ディランの関係を真似したわけです。岡林さんはとてもディランを尊敬していたので、やはりそれを真似てフォークギターからエレキギターに移っていったのです。

結成当初、無名だったはっぴえんどでしたが、すぐにレコーディングの話が持ち上がります。それは当時、急激に盛り上がりをみせつつあったアングラ・フォークの発信源であり元祖インディー・レーベルでもあるURC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)からの誘いでした。
URCは当時、遠藤賢司、岡林信康、ジャックス、早川義夫、高田渡、北山修、シューベルツ、六文銭などが所属しており、絶頂期をむかえていたフォーク・ブームの台風の目となっていました。しかし、将来ロックの時代が来ることを予測していたURC(当時の担当は今や音楽評論家の大御所の一人になった小倉エージさんでした)は、元エイプリル・フールの細野晴臣が結成した、はっぴいえんどに大きな期待をよせ、まだ作品を聞いていないにも関わらず契約が交わされました。

当時日本のロック・バンドが、ブルース・ロックもしくはハード・ロックを演奏し、アメリカよりはイギリス指向だったこと、フラワー・トラヴェリン・バンドに代表されるように英語で歌い欧米で活躍することを目指していたバンドが大勢を締めるなか、彼らの存在は異色であるだけでなく、政治的に右よりであり、軟弱であるとさえ言われました。(反米一色の時代だったのに不思議な話ですが・・・)日本語でロックを歌うことは、技術的にナンセンスであると言われるだけでなく、精神的にも保守的な体制派であると考えられる傾向があったのです。

1970年に日米安保条約が自動延長され、なし崩し的に安保問題に終わりの時がやって来たとはいえ、政治的主張を含まない日常のささいな出来事を歌うことは演歌よりも保守的な反革命的行為であると見なされていたのです。(この時代は、本当に革命が起きると考えている人が多かったのです・・)

彼らのデビュー・アルバムの発売が諸問題で遅れたため、その後に発売されるはずだった彼らがバックを務めた別のミュージシャンのアルバムが先に発売されることになりました。それは、フォークの神様と呼ばれた岡林信康の代表作のひとつ「見るまえに跳べ」でした。このアルバムは、ボブ・ディランのロックへの転向に影響を受けた岡林による初のロック・アルバムと呼べるもので、はっぴいえんどはまるでザ・バンドのような役割を果たしています。まだデビュー・アルバムを発表していなかった彼らは、このことでその謎めいた存在感が増し、なおさらデビュー前のザ・バンドを思わせることになりました。
なお、岡林信康さんと一緒にツアーしたのは1971年の一年ぐらいでした。

「はっぴえんど」は、アングラ・フォークの中心地、URCに所属していたことで、彼らは数多くのフォーク・シンガーのバックを務めました。岡林以外にも、高田渡、友部正人、加川良、遠藤賢司などのバックも担当しています。

kin********さん

2011/11/1014:53:47

はっぴいえんどデビューと前後して、岡林信康「見るまえに跳べ」のバックを務めました。

ライブ映像のひとつ。
http://www.youtube.com/watch?v=kjAI9V1G6bA

ボブ・ディランとザ・バンド、あるいは井上陽水と安全地帯の関係に似ているかもしれません。

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