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個性重視教育は解脱から遠のく?

bai********さん

2011/12/2204:39:22

個性重視教育は解脱から遠のく?

これまでは自由を愛する私としては個性重視の方を重視
すべきだという立場におりましたが、最近はこの考え方
もどうなのかなと思っております。
日本古来よりの協調性重視教育というのも優れた教育方
法の一つなのではないかと。

一挙に飛躍したことを言いますが、人間が最終的に目指
すのは没個性の世界、つまり解脱の世界なのではないか
と思っています。解脱の意識は無色透明な意識なのでは
ないですか? 個性やらなにやらに拘っている内は意識
が自我に侵されているってことではないのですか?

だから目指すは没個性。このような意見は極端ですか?
でも考えてみたら協調性重視でやってきて、未だに解脱
を果たした人をみかけないところを見ると、それとこれ
とは関係がなさそうですね。

とにかく、あまり個性重視と強調するのは、解脱から意
識が遠のいていく方向を目指すことになりませんか?

補足amatsmanaさん
回答者のどなたかが、色んな色が重なって無色透明な
光になると言ってましたが、その話と似てますね。
人間が最終的には無色透明、没個性と言ったのは、
神様がそうだと思ったからです。神様に個性はあり
ますか?
個性と個性が真剣にぶっつかり合う場に神がいる
ということかも。

閲覧数:
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回答数:
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ベストアンサーに選ばれた回答

ban********さん

編集あり2011/12/2316:37:41

協調性重視というのも一つの個性なのです。あなたは日本人はどうだこうだとよく言いますが、その内容こそ日本人の個性ではないですか。あなた自身が日本人的気質を多分に持っているゆえに、それが見えないだけです。

ちなみにこの気質は、身体的な側面から見ると胃に気が集まりやすい人です。ここで、その特徴をズラズラとあげてもいいのですが、あなたを煽るだけでしょうから止めておきます。


ところで、個性とは「偏り」だと言ってもいいでしょう。偏りはその特殊性によって社会では重宝されるものです。なぜなら、突飛なことや華々しいこと、または極端な従順さ等の、「一方向性」というのは金になるし評価されるからです。

例えばミケランジェロなどは、緻密さと豪奢そのもののような芸術に多大な労力とエネルギーを注いでいますが、本人は「神に背いている」意識を捨てきれなかったといいます。

対極に、千利休の茶の湯という芸術があります。簡素そのものの中に濃密な「あるもの」を見出す・・・つまり、「無」や「空間」そのものが主体であり、それに気づくための芸術と言えるでしょう。しかし、分からない人には全く何でもないただのお茶です。華美趣味の秀吉と対立するのももっともなのです。

ところで、あなたの言うところの没個性とは、「透明」ではなく「グレーゾーン」のことではないですか?この二つは明らかに違います。千利休の茶の湯は一見没個性に見えますが、とんでもない・・・。非常に厳しい審美眼と緊張感の伴った、真剣の刃のような世界なのです。お茶は刻々に濃密に生きるということの表現なのです。その非常な集中力(気づき)の中にだけ本当に汚れないものが潜んでおり、それこそが真の「透明」なのです。しかし人は「偏り=罪業と言われるもの=欲」によって、そこまでの精神集中ができないのです。

質問した人からのコメント

2011/12/28 08:46:13

あなたについて詳しいことがもっと知りたいっです。
また指名で質問させていただくかもしれません。
色々教えてください。
皆さん、ありがとうございました!

ベストアンサー以外の回答

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mjo********さん

2011/12/2512:59:59

>没個性

方向性は合っています。
しかし、それを目指すとなると、ちょっと違います。
没個性は、目指したらダメなのです。順番が違います。
個性というフィルターを外すためには、個性を知らなければなりません。
より深く自分を知ることで、表面的な個性は勝手に消えていきます。

col********さん

2011/12/2222:24:10

個性そのものが問題なのではなく、「評価すること」が解脱を遠ざけるのではないでしょうか。
個性を重視して、個性的な人格形成に導くことには何の問題もありません。
しかし人間というものは、どの程度目標が達成されたかを測りたがります。
つまり、子供たちがどのくらい個性的であるかを評価して点数をつけ、個性的だとか、あまり個性的ではないとかと言うわけです。
そうすると、評価される側も自分自身を評価し始めます。
実際に個性的であるということと、それに対していいとか悪いとかと言うことは、まったく別問題です。
解脱において重要なのは、事実を事実として受け入れることだけであり、事実に抗ったり、別の事実を作り出そうとすることがマイナスになるのです。
評価したり解釈したりすることが、別の事実を作り出すということです。
事実そのものがどういう事実なのかということは関係がありません。

ただし、解脱に近づくとか、解脱から遠のくというのも、あまり意味はないかもしれません。
それは、その瞬間だけの話であり、私たちは近い位置をキープして翌日はそこから歩を進める、ということはできないからです。

ちなみに、神に個性がないのは個がないということであって、それは没個性とはまったく違う話です。

shi********さん

編集あり2011/12/2214:21:49

bainiaoさんの質問をみて思い出した話があります。日本の伝統楽器である尺八の演奏を、師が弟子に教える方法です。

師に弟子入りした日より師が弟子に求めることは、「私と完全に同じ演奏をしなさい」というものだそうです。
弟子は言われた通り、師の演奏を聴き、演奏法を見て、可能な限り師と「同じ」演奏をすることを目標とするのです。

ここでは弟子の「個性」や、弟子が「どのような演奏をしたいか」という気持ちなどは問題とされず、むしろそれらは精進を阻害するものとして扱われます。ただひたすら師の「まね」をするのです。

弟子は「本当にこれでいいのだろうか?」「これが本当に自分のやりたい音楽なのだろうか?」と悩みます。中には脱落して去っていく弟子もいます。

しかし何年も何年もこの「まね」を続けていくと、突然、弟子の尺八の音が「飛翔する」日がやってくるそうです。その飛翔する音楽は、師の音楽でもなく、弟子の音楽でもなく、まさに「音」そのものなんだそうです。その日が来ると、師は「私の教えることはもうない」と弟子に伝えます。。。

・・・・・私は音楽が大変好きなんですが、演奏家とはその「個性」が重要だと思っていました。「どういう演奏をしたいか」という意思をしっかりもった演奏家が一流だと思っていました。なのでこの話を初めて聞いたときは非常な衝撃をうけ、感動いたしました。。

bainiaoさんのおっしゃる解脱と通じるところがあるでしょうか??

ama********さん

編集あり2011/12/2211:03:16

先ず「解脱」とは何か?

没個性=解脱 又は 解脱=没個性 とは同意しがたいです。
「自他不二」=「主体と客体の合一」
見る者と見られる者との関係、常に相関関係が作り出す「場、状況」が出現する。この掴みどころのない「両者が作り出す意識現象」を「解脱」といえなくもない。

例によって、何時もの如く例え話で説明させて下さい。

劇場の幕が開いて、役者が登場し芝居を始めました。
大勢の観客は一斉に役者の演技に引きこまれました。
迫真の演技に依って劇場全体が興奮の極みに達しました。
木が入り幕が引かれた時、役者も観客も「我」に帰りました。

役者も夫々の観客も、みな独自の個性を有しています。
演劇とは見せる役者と観客との個性の衝突の「場」です。
若し相互の強烈な個性のせめぎ合いが無ければ、
如何にして「最高の興奮状態」の「場」が生じましょうか?

豈、学校教育の現場のみならず、教え導く者(主体)と
教えを請う者(客体)相互の強力な個性どうしの真剣な
ぶっつかりあいが無ければ、
教育効果の向上など望むべきもありません。

如何にしても学びたいと最高の知識を望む生徒、
なんとしても自己の全てを投げうって教えたい先生。
夫々強烈な持ち主で有ってこそ、激突が有ればこそ、
輝かし教育成果としての「協調の場」が生じる。

「解脱」は「意識上に仮現する現象」であって不可視。

ごめんなさい。取りとめが無くて、でも真剣に考えました。
お分かり頂ければ幸いです。


敬愛する白鳥先生へ

困りますねえ~! そんなに無学文盲の年寄りをいじめられては。
今朝何時もの様に4:00am頃起きてすぐこのサイトを覗いた時、
ざーと目を通し「解脱云々」が先生の投稿と先に気づいて居れば、
確実にパスするのでしたが、不覚でした。
私は用心深い性質でして「負ける戦はしない」「協力避ける」を
信条として70有余年生き延びてまいりました。

直感的に白鳥先生とは「干戈を交えるべきでない」と感じておりますので
何卒宜しくご指導ご教授の程をお願い致しておきます。

富山は立山の麓若しくは八尾の辺りに隠れ住んでおいでになりますか?
屋久島の永田の集落辺りはポンカンの食べごろ、クエ鍋も最高です。
何日ぐらいご滞在のよていですか?実に羨ましい限りです。

さてサテ、「神さまの個性」 少なく見積もって70億位取り敢えず考えられます。
犬猫、草木、岩山の類まで含めますれば、「無量無数」と言えますかな。

「一切諸法」は「相対的」に「生起消滅」を繰り返し流転しております。
「相対的依存関係」ですから、片方が生まれたら即座に呼応して他方がうまれる。
その逆も又真也。物体と鏡の関係に似ております。

物体とその影は「附則不離」「因と果」で有り、光は「縁」の働きです。
「因」は「縁」の働きが有って「果」に転じます。「因縁因果」の理法です。
「一切諸法」「神さまも」理屈は全て平等であります。
「この大宇宙」隅から隅まで「時空」は1秒の狂いも無く「統一」されています。

この「認識される現象」を唯一絶対の「神」と呼ぶべきでしょう。

最後までお付き合い下さった事に深く感謝します。
戯言でお耳をけがして済みません。

益々のご精進をお祈りしております。
謹白

天同 叶 拝

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