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羽柴秀吉、丹羽長秀はどの時点で上下関係が逆転したのでしょうか?

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ID非公開さん

2011/12/2222:59:31

羽柴秀吉、丹羽長秀はどの時点で上下関係が逆転したのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

編集あり2011/12/2300:08:32

ものすごく微妙で、この時には逆転していたと断言できるのは、信長亡き後の山崎の合戦直前ですね。
では推測してどこまでさかのぼれるかというと、丹羽長秀は織田家中でいわゆる軍団長である明智光秀、柴田勝家、羽柴秀吉、瀧川一益とは違いますが、吉法師の頃から側近として一番信長の傍にいた知勇兼備の人です。
側近としては№1で安土城普請の責任者であり、京都馬揃の時には筆頭でした。そして信長の息子のうち織田家当主の信忠は別格として、信雄、信孝のうち信孝の四国攻めの副将・・・つまり後見人であり実質的な軍団長格でありました。

この事実をみるに、信長存命中は、長秀が秀吉より格下とは到底言えません。

しかも勝家と秀吉は信長から見ると方や謀反人、方や重大な命令違反を犯した前歴があります。丹羽長秀にはそういう「前科」がありません。

これからは、あくまで私の私見ですが、信長が一番信頼していたのは丹羽長秀、二番目が明智光秀、三番目が羽柴秀吉、四番目は瀧川一益、五番目が柴田勝家・・・位ではないでしょうか。

戦働きにおいては羽柴、明智、柴田なので、戦場での信頼度が丹羽や瀧川は劣るでしょう。

柴田が筆頭家老の様に思われがちですが、それはあくまでも江戸時代の朱子学的な偏見であって、譜代であるから地位が高いであろうというのは間違いです。

本当の筆頭家臣は明智光秀です。
織田家の家臣は、信長から領地を任されていただけであり、自領として下賜されていたわけではないので、委任されて統治している土地が多いからといって、それが必ずしも地位の序列を示すものではないようです。

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質問した人からのコメント

2011/12/24 18:37:29

降参 詳しい説明を本当にありがとうございます。他の方々もありがとうございました

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tig********さん

2011/12/2223:08:25

やはり本能寺の変のあとの中国大返しをして兵をたくさん引き連れていた時点かな。信孝を君主扱いしていれば羽柴の天下には為らなかったのでは。

kur********さん

2011/12/2223:03:55

やはり明智光秀を討ち取ったところが決定的だと思います。

それ以前で立場が逆転しているとみられるのは、
羽柴秀吉が毛利輝元を討ちに行ったのに対して、
丹羽長秀は四国平定です。
規模が違うからここからではないですか?

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