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御法主上人に随順 「血脈相承の御法主上人に随順(ずいじゅん)しゆくことこそ、...

hakana_ureiさん

2012/2/2121:43:16

御法主上人に随順
「血脈相承の御法主上人に随順(ずいじゅん)しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくる。」
(池田大作『広布と人生を語る』第3巻32頁)

血脈否定は狂気の沙汰
「日顕上人は、54年7月22日の日達上人の御遷化(ごせんげ)にともない、第六十七世法主・管長に就任。以来一年半にわたって、彼ら(正信会)も日顕上人を法主と仰いでいたのである。また、彼ら自身、かっては法主の地位や血脈相承についてうんぬんすることは甚(はなは)だしい謗法である、と明言していた。 こうした経過からも明らかなように、彼らの訴えは要するに、自分達の思い通りにならない日顕上人を法主(ほっす)の座から追い落とそうとした、タメにするものに他ならない。いかにタメにするものとはいえ、御法主上人の血脈を否定し、あまつさえ裁判に訴えるなど、日蓮正宗の仏飯をはんだ者には、およそ考えられない所業であり、狂気の沙汰としか言いようがない。」
(池田大作『創価新報』昭和60年12月4日付)

「ご存知のとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四祖日道上人、および御歴代上人、そして現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない。」
(池田大作『広布と人生を語る』第3巻249頁)

Q1 いまの創価学会は日顕さんの血脈相承を否定していませんか?

Q2 法主の血脈相承を否定しているなら、創価学会は大謗法ではないのですか?

補足キンサイさんへ。

>「唯授一人・血脈相承」の化儀自体を、私の中では否定していますからね。


否定している理由を教えてください。

この質問は、earth_humanismさんに回答をリクエストしました。

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ベストアンサーに選ばれた回答

2012/2/2717:26:35

やっほう^^

ハナカユーレイさんこんにちは。

日蓮正宗信徒のサーベルタイガーです。

質問者さんではありませんがSOSを受けて来てみれば、『血脈論』ですか・・。

っはっはWw
これはね、その概念があると主張する正宗サイドも、無いと否定する学会サイドも共に客観的に証明不可能命題であり、賢者は参戦しませんよ。

『信仰』、つまり究極的には心の在り方、イデオロギーの問題だからね。

例えば究極の所、我々仏教徒は十字教の『神』という超上の概念を否定しているが、存在を主張する彼等も否定する我らも、宇宙を隈無く検証した訳ではないので、『信じる、主張する』は出来ても『客観的にも証明する』は両者共に出来ない、「悪魔の証明理論」と同じ。
(こういうのを『ヘンペルの鴉』と言います)

故に私もこの手の話題でやり合ってるのをたまに見掛けるけど、
「このテーマでよく盛り上がれるな、カンシンカンシーン!!Ww」
とスルーです(笑)
が、女性に頼まれれば無下にも出来ないので、義理で今、こうして此処に立っています^^

さーてと、んじゃあ理論展開☆ 逝きますか♪

先ず、よく見掛けるのが、
『本門戒壇の大御本尊』
『血脈相承』といったロジックを否定する事で、日蓮正宗の教義が破綻している云々だがよく考えてみて欲しい。

学会も正宗も、各家庭に安置している本尊の相貌は同じ、題目も同じ。
言ってしまえばある意味、日蓮正宗から『本門戒壇』や『血脈観』を差し引いたのが創価学会とも言え、故に学会が自分達の信仰スタイルで得道(成仏の事ね!)出来るなら自動的に正宗にも可能という事になります。

学会が自らの信仰スタンスで成道可能を主張する事自体が、自動的に正宗の成道可能を裏付ける形になってますね。

逆に翻って正宗の主張するそれらのアイデンティティがもし実在するなら、正宗はそれでもノープロだが学会はその時点で軒並みNGにという事になりますねWw
つまり両者の信仰スタイルの理論的正当性、そのパワーバランスは正宗≧学会となります。

学会がいくら本門戒壇や血脈を否定した所で、両者共に共通して『同じ相貌の本尊に同じ題目を挙げる事』を信仰スタイルとする以上、その時点でイーブンになるだけであり、同じ信仰スタイルを持つ他ならぬ学会が、日蓮正宗のそれらの教義を否定した・破折した言っても学会にとって何らアドバンテージにも成り得ず、また正宗にとっても何らビハインドにならない事に気付いて欲しい。

次に血脈相承のロジックそのものについて。

先ず日蓮正宗組織としてではなく『私、サーベルタイガー個人』の受け止め方として、あれは『化儀』。

Aという中道第一義諦としての命からBという命へ、真言の印を結んで相承箱をキャッチボールするだけで資質・属性・特質・内証の悟りといったものがスライド憑依するロジック等は、命のメカニズムを解き明かした一念三千(=妙法蓮華経)には無い。

例えば頭のいい佐藤君と頭の悪い鈴木君が向かい合って座り、ムニャムニャ呪文を唱えて『ハァーイ!』とハイタッチ、佐藤君の頭のポテンシャルが鈴木君に移る訳ではない。

『一往は』宗祖は宗祖。日興上人は日興上人。中諦としての命は飽くまで別個です。
(スマソ!ちょっとだけ難しい話になるがm(__)m)
しかし『再往』は同じ命として観る。

これは例えば、法華経に於いて釈尊は五百塵点劫という遥か昔に実は既に仏に成っていたと説くが、であるならばそれ以前のタイミングで仏になる為の修行をしていた『根本の修行法』がある筈だ!として、釈尊が一番最初に仏になった時の修行法を現代にデバッグ(再現)させようというのが日蓮仏法です。
だからこそ、釈尊と大聖人は『命は飽くまで別個』だが、その悟りの内証は久遠元初の自受用報身如来という共通の見解に達している為に『同じ命』として観る。

血脈相承というのも、飽くまで信仰上の目線に依るもの。
歴代上人は個々それぞれ別の命(個体)だが、その内証は同一であると信仰の観点から観るものであり、認識の問題であり、ここでディベート展開しても水掛け論の泥沼戦になる事は必至なんだよね(笑)

(回答2へ)

質問した人からのコメント

2012/2/28 18:24:56

降参 ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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2012/2/2717:30:53

回答3、サーベルタイガー別ID、ラストです。

つまり本尊とはある意味では
『草木成仏の原理を応用して表現された、人工的な依法の「仏」』であり、
『紙という形態を取った「仏」』です。

※この辺は、ここのスレでも私が回答している通り。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1382139808

物理的に見ればあれは間違いなく紙でしょうが、信仰の目線から観るならば「仏」として捉え信仰するのが『信心』です。

初めから『ただの物』と認識して信仰するのは『器物信仰』ですねWw

更に言えば、私個人の見解はさておき、日蓮仏法のロジックでは日蓮大聖人を仏と認識し、あの本尊と大聖人は相即不二(便宜上、2つに別れていても実は等しく、同一視する事)の関係にあると説く。

従って池田氏の発言、
『本尊は、ただの物です!』
は言い換えれば、
『大聖人は、ただの人です!』
に等しい。

いや、ある意味間違ってないですよ?(笑)
大聖人だって「生物学上」は、間違いなくニンゲンだから。
切れば血も出るし呼吸をし続けなければ生存もできない。

しかし『その認識』は、信仰者の視点ではないのですよ。

先月ヂズニーランド(笑)に行ってきましたが、あそこのクルー達の『ゲストの夢を守る』プロ根性はハンパない。

そのクルーが満員のゲスト(来客)に大音声を放ち、
『みなさーん!!実はミッキーの中には、ヒトが入ってまーす!』
って言ったらどうなりますか?Ww

『いや、そんなの誰だって分かってっけど!』
『お前の立場でソレ言っちゃお終まいだろが!』
となりますよね?(笑)

血脈の概念もそう。
各上人も生物学的には飽くまで『別の人間』、しかし信仰の目線で同一と『捉えて』いくのが信心。
大聖人御在世当時も大聖人に対して在家信者が信服随従していたでしょ?

その信仰の形をアーキタイプ(雛型・元型)として、時代の変化にあってもそこは変えてはならないとして存在する概念であり、歴代リレーされていく上人を大聖人と等しく『信仰目線で捉えて』いく為の概念。

故に相承箱という存在もその儀式内容もある意味『通過儀礼』であって、
「相承箱の中身がどうとか儀式がどうとか一度相承は途切れているじゃないか」言うのはある意味的外れなんだよね。

私は決して日蓮正宗の信仰スタンス、そのイデオロギーが全て正しいとは言いません。

私個人はある意味では不良な日蓮正宗信徒かもしれないし、出家と在家・僧と俗、着る服や立場・肩書きで正誤が決するものではないと捉えています。

学会には絶対的なNGを出して日蓮正宗に移っているものの、
『学会にいるから学会が正しい』
『正宗にいるから正宗が正しい』という、所属組織にジャッジの基準を委ねてしまう寄りかかり信仰にはなりたくなく、
『意思ある1つの命』でありたいと思っていますが、学会の言う
「本尊はただの物」にしても
「血脈という信仰スタイルの否定」にしても、どちらも共通して言えるのは信仰の目線ではなく『一般社会通念』或いは『物理的見地』で捉えるが故のミステイク発言です。

日蓮正宗サイドが池田氏を認めない様に、学会サイドにしてみればその上人は上人として相応しいか、という意見も勿論あるだろうが、それは別として
『血脈という、信仰する上でのスタンス』を物理的な見地から否定する学会は、信心ない故の姿だと思いますよ。

いやホント長くなってゴミンネWw

おっと、そうそう、
ハカナユーレイさん&一般市民さん、カテマスおめでとうWw

女性の味方、サーベルタイガーでしたWw

2012/2/2717:28:20

回答2、サーベルタイガー別ID、続きです。

『認識の問題』
結局、信仰上の認識の問題とは「捉え方」の問題であり、客観的な証明など両者出来ないが、その捉え方に於いての両者の違いは第三者にも明白に確認出来る。
例えば1つ、両者の見解の違いを挙げると、

日蓮正宗は本尊を『生身(しょうしん)の仏』と捉える。

学会は池田氏の発言に言わせれば『ただの物』だそうだ。

別スレでも書いた内容だが、おおよそ宗教と呼ばれるものには本尊があり、材質は紙・石・木・金属などそれぞれ媒体となるマテリアルはバラバラであり、この時点では間違いなく『物質』。
しかし信仰者はそこに付加価値を与え、そこにこそ祈りを挙げる。

例えば日蓮仏法に於いて、あの本尊で重要なのはその相貌だけではなく、草木媒体、つまり紙というマテリアルの上に図顕されたポイントにあります。
紙というマテリアルに仏が悟った命の法則性を書き込む事で、依法(非生命体、草や木の事ね!)の仏として見ます。
この点について言及しておこう。

↓ちょっくら難しい話になってメンゴメンゴ。
なんなら次からの★はトバしてもオッケ。

★このロジックは法華経で説かれる真理に於いて、生命体は色・受・想・行・識という5つが集まって成り立っていると明かされ、後半4つは心の事です。
また生命体以外は「国土世間」と表現され、草木や石、マクロでは惑星もここにカテゴライズされます。つまりは心なき物質。

問題は最初の色。
これは生命体の肉体面であり、物質的側面の事ですが、これは実は国土世間と同義で、つまり我々、生命体のこの体は、他ならぬ国土世間、環境世界の物質のフィードバックを受けて成立しているという事です。
我々の肉体は、そこらの石や草木や惑星、果ては人工物である筈のガードレールやアスファルトのコールタール等と分子・原子・元素など最小のレベルまで砕いてしまえば両者に違いはなく同一という事。

生命というも非生命というも、元素の塊に心法が宿るか否かの違いに過ぎない。

経に曰く
『経主釈尊は、我が身を地水火風空と識ろしめて・仏にはなり候らめ』

あの本尊は草木、つまり紙という「物質」を色と見立て、そこに仏(自受用身)の悟りの内証である一念三千を心法(心)と見立て書き込む事で生身(しょうしん)の仏として見立てる、捉える。★
(回答3へ、すまん収まんなかったWw)

hawakliazariさん

2012/2/2501:00:35

思索のヒントに。多宝富士日蓮華山大石寺第二祖・(59世等)日興上人(僧宝人間御僧侶内証当体蓮華仏)のたまわく。

*日興遺誡置文

夫れ以みれば末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照し久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う、於戲仏法に値うこと希にして喩を曇華の蕚に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か、爰に我等宿縁深厚なるに依つて幸に此の経に遇い奉ることを得、随つて後学の為に条目を筆端に染むる事、偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり。

一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。

一、五人の立義一一先師の御弘通に違する事。

一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。

一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事。

一、謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。

一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。

一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。

一、予が後代の徒衆等権実を弁えざる間は父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣で学文す可き事。

一、義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。

一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。

一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。

一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。

一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。

**
一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
**

一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。

一、衣の墨黒くすべからざる事。

一、直綴を着す可からざる事。

一、謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事。

一、謗法の供養を請く可からざる事。

一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。
但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事。

一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。

一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の 犯有りと雖も衆徒に差置く可き事。

一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫す可き事。

右の条目大略此くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ、此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず、仍つて定むる所の条条件の如し。

元弘三年[癸酉]正月十三日

編集あり2012/2/2417:58:51

現役学会員です。


質問者氏。

いいかな?真実を真実のまんまに記載して差し上げます。まず「日蓮正宗の主張する血脈もクソも元々ない」んですよ。


>>「化儀自体を」否定している理由を教えてください。

論拠は以下です。


①「バカみたいな相承の内容」から解る通り、宗教などというのは「答えの無い事柄=哲学」に「仮の答えを出すもの」ですから、証明のしようが無い事柄なのです。これは現在地球上に存在する如何なる宗教でも宗派でも、証明のしようなどは無いのです。ただ、真実を探求し続けてきた人類の歴史なのです。

②日蓮正宗総本山大石寺第67世の法主阿部日顕氏の肉声です。http://www.youtube.com/watch?v=0kpks1ACB44
もう何でもありだろwwwバカ杉て話にならんのです。

③現代科学の発達で明らかになってきた最新の研究において、その拠り所をしてきた「文証(文献ね!)」が偽書であることが次々と明るみになっています。

どちらにしても、もう日蓮正宗の教義自体が破綻しているという現実ですわね。


本当に仏教史を引っ繰り返すような真実なのですが、そもそも仏教の始祖である「釈尊(お釈迦様ね!)」の文献自体が後世の作品です。ですから釈尊の「悟り」自体を正確に伝えているのか?どうかすらも怪しいのですよ。


●日蓮仏法の上から創価学会を否定する、貴女のその質問自体が無益なのです。


>>Q1 いまの創価学会は日顕さんの血脈相承を否定していませんか?

創価学会は否定していますし、日本中の学会員は全員否定していると思います。無論ワタシも否定しています。キンサイ氏も否定していますしカンキチ氏も否定しています。


>>Q2 法主の血脈相承を否定しているなら、創価学会は大謗法ではないのですか?

これは「個人的見解です。(学会員様からの意見も求む!)」釈尊の悟りに立ち返り考えます。「何を持って謗法なのか?」ということです。「仏教の教主」釈尊の悟りは真偽未定であっても「法華経」であると認識しています。その法華経の内容は、本質のところ「人間賛歌」です。つまり「人間にとって不価値なことを謗法」だと認識しています。

「創価学会」というのは元々小学校の教員であった、故牧口氏の真実探求の精神から始まりました。ここで牧口先生(元学校の先生だから先生です)が、日蓮正宗の信者となり「日蓮仏法」に出会いました。その日蓮仏法の効能を試し研究発表し合うことが現在、創価学会伝統の「座談会(大善生活実験証明座談会)」です。

しかし日蓮正宗は第二次大戦中、国家神道という権力に屈し「戦争」に迎合しました。対して武力戦争という「人類にとって反価値」なものに反対する牧口先生におかれては当時戦争を良しとする、日本の風潮に逆らい「逮捕された上獄死」されました。もうこの時点で既に創価学会と日蓮正宗のどちらが「人類の為」であるかの結論が出ていたのだとワタシは思います。

その後、牧口先生の意志を受継ぎ、その価値観を世の中に広められたのが第二代会長戸田先生(実業家)です。未だに戸田門下を名乗る人が多いほど豪傑な「岩窟王」です。

さらに2代会長である戸田氏の元に「戦争で家族を失いながらも、生まれて来たことに希望を捨てていない一人の哲学青年が訪ねました」これが後の池田先生です。


釈尊の出世の本懐(世の中に生まれた理由)は仏教哲学の建立であると認識しています。それは「人の振る舞い」であり「人間賛歌である法華経」だとワタシは確信しています。日蓮大聖人の釈迦仏教の研究成果であり一生をとして捧げられた真実探求の道の結論は「万人の幸福」であると確信しています。


「創価学会三代会長」は何れの方も「教主釈尊」にも「日蓮大聖人」にも「謗法していません」ですからワタシは日蓮正宗では無く「創価学会の会員」なのです。


日蓮正宗の主張する日蓮仏法が文証の上で崩れ去ろうと、人類の価値探求を本懐とする「創価学会」が崩れることは未来永劫に有り得ないと確信しています。


また、学会員同志におかれては、『自分次第』だということを命がけでご主張された「大聖人の法に文証も理証も重要では無く、あなた様が目で見て耳で聞き感じたことが全てであると確信しています。」『仏法の真髄は、自分自身に、生き切ることだ』戸田城聖


全員が仏の現れであると思いますわねっ^^『自分次第』それこそが仏教の「本流であり血脈である」と認識しています。



以上。天才(笑)モンキーの回答でしたwww

2012/2/2319:15:38

とっても気になるユーレイさんの補足へ

>>否定している理由を教えてください。

日蓮大聖人の四箇の格言は知っていますよね。

念仏無間・真言亡国・禅天魔・律国賊 です。

と云いつつ、「唯授一人・血脈相承」の化儀の詳細を教えますね。

驚愕教授さんの大ホームランの資料から・・・なんと


その御相承の内容とは驚く莫れ、『開目抄』にも記述されている善無畏三蔵の法華経の肝心真言に始まり、愛染明王・不動明王・大日如来の真言を計三回、前法主と新法主が印を結んで唱えて、妙法曼荼羅の書き合わせをするものです。

すなわち「ノウマクサンマンダボダナン ア ア アンナク サルバボダ キノウ サキシュビヤ ギャギャ ノウサンソバ アラキシャニ サツリダルマ フンダリキャ ソタラン ジャ ウン バン コク バサラ アラキシャマン ウン ソワカ。ナム サツリダルマ フンダリキャ ソタラン(三唱)。ウン シッチ ジャク ウン 。ナム サツリダルマ フンダリキャ ソタラン(三唱)。ノウマクサンマンダボダナン カン。ナムサツリダルマ フンダリキャ ソタラン(三唱)。オン アボキャベイ ロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン。ナム サツリダルマ フンダリキャ ソタラン(三唱)。」

これは堀日亨が他の富士門流寺院の研究仲間に送った書簡に書かれていたもので、本人は「拍子抜けした」とその内容を評しています。

これじゃ真言宗と同じですね。


という事です。

『信心の血脈なくんば法華経(大御本尊)を持つとも無益なり』(生死一大事血脈抄 P1338)


理解して頂けましたか?


ユーレイさんはオハギと違って、教学もある程度理解していますし、道理も認めてくれますよね。

yahooメールでお話ししませんか?

実に興味があるんですよね、ユーレイさんに。。。

私からまず送信しますので返信を期待していますね。

よろしく!

とっても気になるユーレイさんの補足へ

>>否定している理由を教えてください。...

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