江戸時代の江戸はどこまでを江戸と言ったのですか?

補足

品川でもギリギリ江戸なのですね。 板橋はかわいそうですが、江戸には含めなかったようですね。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさん、ありがとうございます。

お礼日時:2012/4/3 22:47

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江戸初期には北と南は板橋と品川が江戸から一番目の宿とされており東は隅田川までが江戸となっておりました。 更に西に新宿が新設されるとこの手前までが江戸とされました。 しかし江戸の町が巨大化していきますと、板橋と品川・新宿はそれこそ宿場の関門の手前まで市街化して内側は江戸となり、両国橋が掛けられて東は荒川まで江戸とされました。 また、代々木・渋谷・恵比寿は江戸の外でしたが目黒不動一帯は江戸の町の範囲とされていました。 ただし増上寺あたりから品川駅のJRの線路あたりが海岸線でそこから海側は江戸時代には存在していません。 尚、江戸時代の品川宿は北品川あたりなので、現在の品川駅までは江戸の範疇に含まれます。

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>十九世紀の初めまで、江戸の範囲は極めて曖昧でした。 もともと『江戸』市中は、町地は町奉行・寺社地は寺社奉行・武家地は大目付、目付と言うように支配系統が異なっていて、行政区域の統一性を欠いていました。 さらに市街化が周辺部に及ぶと代官支配域も加わり、次第に江戸の範囲が不明瞭となりました。 町奉行の支配地域を江戸の内とするのは市街の拡大とともに実情にそぐわなくなりました。 旗本などの武士が江戸の外へ出掛ける時には届けを出す事になっていましたが、江戸の境界が明確でなく、寛政三年(1791)に老中見解として『江戸城曲輪内より四里(約15.6)以内』と示されたにすぎませんでした。 また刑罰の追放刑に『江戸払い』がありますが、この範囲は老中見解と異なっていました。 さらに寺社建立などのため寄附を募る事を寺社奉行が許可する江戸の範囲(寺社勧化場)も前二者とは異なっていました。 そこで文政元年(1818)十二月、老中阿部正精から江戸絵図面に朱線を引く(朱引)かたちで、江戸の範囲に関する幕府の統一見解が示され、これによると江戸の範囲は、町奉行所の支配地域よりかなり広く、『東は中川・西は神田川上流限り・南は目黒川辺・北は荒川、石神井川下流限り』とされ、ほぼ現在の山手線外縁部と墨田・江東地区を含む地域となり以後、この朱引内が江戸の範囲となりました。

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