秋山真之参謀

秋山真之参謀 もし長生きしていれば連合艦隊司令長官(第一艦隊司令長官)に就任してますか?

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秋山真之が、兵学校17期のクラスヘッドであることはご存じですね。 海軍では、兵学校の卒業席次が少尉任官時の先任順となり人事の基本となり(先任順のことをハンモックナンバーと呼びました)、特にクラスヘッドについては、「クラスヘッドは原則として動かさない」という内規があり、重んじられていました。 秋山は、日露戦争後は奇行が目立ち、宗教に凝っていたと言います。秋山が若くして死んだのも、宗教に凝って医療を拒否したためだそうです。ですが、兵17期のトップで少将・中将に進級し、少将の時には海軍省の最重要ポストである軍務局長を務めております。これは、クラスヘッドの待遇としてふさわしいものであり、秋山の奇行は進級や補職に影響しなかったようです。 秋山は、少将で第二水雷戦隊司令官を務めている時に発病し、前述のように宗教に凝っていたために通常の医療を拒否して病状が悪化し、海上勤務に耐えられなくなって陸上勤務(将官会議議員という、事実上の無任所)に転じ、中将進級(17期の最初)と同時に待命となっています。この時には、既に海軍士官としての勤務に耐えられなかったようです。 こうしたことがなければ、秋山は、少将で軍務局長を務めた以上、健康な状態に中将に進級すれば 「艦隊司令長官」(第一艦隊長官 兼 GF長官を除く) 「鎮守府司令長官」 「海軍次官」 「艦政本部長」 「軍令部次長」 「戦隊司令官」(戦艦や巡洋艦で構成される『第*戦隊』の司令官は中将が多く補されました) 「警備府司令官」 「練習艦隊司令官」 など、「中将としての顕職」をいくつか経た後、海軍の三大顕職と言われた、大将親任待ちの中将、または大将が任じられる 「海軍大臣」 「軍令部総長」 「GF長官」 のいずれかに就き、それと前後して大将に親任されたと思われます。 秋山は健康を害して中将で「消えた」ので、「秋山が健康だったら」というIFを探るには、秋山のクラスメートの経歴を参考にするのが順当です。 秋山がクラスヘッドである兵17期からは、秋山が脱落したためか、大将は出ていません。 上記の「海軍三顕職」に就いた者もいません。 http://homepage2.nifty.com/nishidah/px17.htm 17期で、一番出世したと言える 斎藤 半六 中将 (少将進級・中将進級とも、秋山より3年遅れ) http://homepage2.nifty.com/nishidah/px17.htm#v004 は、 「練習艦隊司令官」 「佐世保鎮守府長官」 「第2艦隊長官」 の3つの顕職を歴任しています。クラスヘッドより進級が3年遅れたにしては「健闘」しています。 海軍の人事慣行では、中将に進級してから一定期間現役にある者は大将に親任され、大将にならない者はそれまでに予備役となりました。 斎藤中将は、大 9(1920).12. 1に中将進級、大14(1925).12.16に予備役となっています。中将を満5年務めた訳です。 17期の前後のクラスの大将を見ますと、兵16期の井出 謙治大将、兵18期の安保清種大将、加藤寛治大将、いずれも、中将進級から満6年半で大将に親任されています。 秋山が健康で現役を続けていれば、上記の3大将と同様の経歴を踏んだ可能性が高いでしょう。

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その他の回答(2件)

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いや無理だと思いますね 完全に参謀タイプの人だから 同じく参謀タイプで双璧だった佐藤鉄太郎も艦隊司令長官すらなってませんし・・・ 山屋他人や山下源太郎の様に人間関係の構築にも秀でていたりと、指揮官としての技能も無いと務まらないと思いますよ

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大正6年の12月に中将になり、待命中の翌2月に病死していますが、元気だったら最後は大将で連合艦隊長官って線は濃かったのではないでしょうか。 山屋他人がなっていますし、同時代の人だと、栃内曾次郎や竹下勇あたりの地味な人も就任しているくらいですから。 もっとも、そのあととなると鈴木貫太郎、岡田啓介、加藤寛治と歴史に名を残す人が続いていますから、タイミングしだいですけど。