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先日はシュガー レイ ロビンソンとヘミングウェイのエピソードの質問にご回答いた...

rei********さん

2012/12/1217:47:36

先日はシュガー レイ ロビンソンとヘミングウェイのエピソードの質問にご回答いただきありがとうございました! ところでロビンソンの全盛期、彼が対戦を嫌がったチャーリー バーリーというボクサーについて詳しくご存知だったら、どんなボクサーだったのか教えていただけないでしょうか…

この質問は、tod********さんに回答をリクエストしました。

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ベストアンサーに選ばれた回答

wam********さん

編集あり2012/12/1315:29:00

◎チャーリー・バーリー(1917年9月6日~1992年10月16日)
名匠エディ・ファッチが「文句なしに最高のオール・ラウンダー」と評し、初代シュガー・レイが対戦を避けたと言われるバーリーは、”無冠の帝王”としてサム・ラングフォードと並び称される存在です。

W級とM級にまたがり、1936年(19歳)~50年(33歳)までの14年間に98試合の公式戦と、150戦を超えるエキジビションを行った。身長は175~6cm前後(リーチには恵まれていた)で、本来のベストウェイトは現在のS・L級(140ポンド)だったとの説もあり、世界王者になるために無理に増量したらしい。多くの試合を、W級~現在のS・W級(145~155ポンド前後)で戦った。
*当時の王座は正統8階級。J・L級とJ・W級は事実上の休眠状態。

ペンシルベニア州ベッセマー(ピッツバーグ近郊)の出身で、本名はチャールス・ドゥエイン・バーリー。12歳で地元の青少年向け施設でボクシングと出会い、アマチュアのトップ選手に成長。

ベルリン五輪の代表候補(L級の補欠)に選ばれたが、ナチスのユダヤ人排斥運動に反対して代表チームへの参加を辞退。スペインで開催される予定だった「Workers Games」に出場しようとするも、内乱の勃発により大会が消滅。バーリーはプロに転向した。

スタートの2年間に22勝(13KO)2敗の成績を収め、ルイス・ココア・キッドからカラード(有色人種)のウェルター級世界王座を奪取。後に世界王者となるビリー・スース(M級)、フリッジー・ジビック(W級)とも対戦。

黒人の血が混じったH・アームストロングがFe級に続いてW級でも世界王者となり、バーリーのカラード・タイトルは自然消滅。1939年、超人ハンクへの挑戦が内定しながら、試合で負った怪我で見送り。

M級時代のエザート・チャールズ、L・ヘビーで活躍するロイド・マーシャルらを始めとするトップランカーたちと、体格差を気にせず拳を交えた他、当時を代表する強豪の1人、ホールマン・ウィリアムスとのライバル対決(7戦3勝3敗1NC)も有名。

1942年にミネソタへと拠点を移し、W級とM級の両階級で世界王座を目指す。しかし激化する第二次大戦の影響で試合が激減。44年には同じように強過ぎて王者たちから敬遠されていた、アーチー・ムーア(M級時代)にも判定勝ち。

W級王座は超人ハンク→ジビック→フレディ・コクランと移動。「受けてくれるなら無報酬で構わない」と直訴するも、コクランは海軍に入隊。M級王者の鉄人トニー・ゼールも、コクランの後を追う。除隊するまで世界戦は凍結。

コクランは除隊後もバーリーの挑戦を避け続け、M・サーボに敗れて引退。サーボも防衛戦を拒否して返上。W級の王座決定戦は、カリスマ的な人気を誇ったシュガー・レイ・ロビンソンにさらわれ、大スターはキッド・ギャビランやジミー・ドイルら人気者との防衛戦を優先。

ミドル級のゼールは除隊後しっかり防衛戦を消化したが、やはりバーリー戦を拒否。ロッキー・グラジアノ、マルセル・セルダン、ジェイク・ラモッタらの激闘に、バーリーは割って入ることがついにできなかった。

30歳を過ぎたバーリーは次第にボクシングへの情熱を失い、ピッツバーグに戻って清掃局員になり生活の糧を得る。1950年に3試合を戦うと、世界タイトルには一度も挑戦することがないまま引退。一部の関係者やマニアを例外として、バーリーの名前は長く忘れ去られてしまう・・・

そして1987年、突然バーリーの名前がメディアに再登場。カリフォルニアの世界ボクシング殿堂がバーリーを選出。91年に開館したニューヨークの国際ボクシング殿堂も、92年にバーリーを選出。綺羅星のごとき名王者たちの列に並ぶのを待っていたかのように、その年の秋天に召された。

◎シュガー・レイは本当に逃げた?
H・アームストロング、F・ジビック、F・コクラン、T・ゼール、R・グラジアノ、J・ラモッタ。バーリーの挑戦を回避したとされる王者たち。史上最高のボクサーと称されるシュガー・レイも、バーリーとの対戦が幾度も具体化しながら、その都度流れている。

1942年にシュガー・レイがミネアポリスで試合を行った際、宿泊先のホテルで2人は初めて顔を合わせ、交渉がスタート。大戦終結後の46年に一度は合意。カリスマが要求した2万5千ドルを都合するべく、マネージャーともども奔走。スターのシュガー・レイを破れば、「世界王者たちもこれ以上は無視はできないはずだ」と必死にカネをかき集めたが、結局実現せず。

◎生涯戦績
①Boxrec:98戦83勝(50KO)12敗2分け1NC
②国際ボクシング殿堂:98戦84勝(50KO)11敗2分け1NC
③バーリー公式サイト:98戦83勝(52KO)12敗2分け1NC

◎試合映像:オークランド・ビリー・スミス戦(46年4月24日/10回判定勝ち)
http://www.youtube.com/watch?v=BZUhAqizFyU

蛇足ですが、シュガー・レイを評したヘミングウェイの原文は、「Grace under pressure」で、「逆境に光る(輝く)気品」という訳もあります。

質問した人からのコメント

2012/12/13 15:50:14

感謝 たいへん詳しいご回答ありがとうございました。ボクシングの歴史の中にはまだまだ埋もれた逸材達がたくさんいるのでしょうね…

おふたかたともありがとうございました

ベストアンサー以外の回答

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tod********さん

リクエストマッチ

2012/12/1309:18:28

詳しく知らないどころか全く知りません!面目ないです!!

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