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本能寺の変で明智光秀に暗殺された織田信長は、何が不足してこの様な事態となった...

ゴンザレス高山さん

2013/1/1109:38:06

本能寺の変で明智光秀に暗殺された織田信長は、何が不足してこの様な事態となったのでしょうか?

光秀の謀反を回避して、信長が天下統一をするには何が必要だったのでしょうか?

本能寺に宿泊する時に家臣や兵を増やすや嫡男・織田信忠に兵力を持たせ上洛させる以外でお願いします。

本能寺の変を回避する方法だけでなく、光秀の謀反自体をさせない方法も含め回答をして頂ければと思います。

補足信長は、光秀をかなり評価していました。
一時期は、筆頭家老の柴田勝家を上回る対応でした。
しかし、信長の接し方に関しては問題がなったとはいえませんね。

将軍・足利義昭を伴っての上洛は、当時としては最高の大義名分で間違ってはいません。

なかなか、感心する回答がないですが、それだけ微妙で難しい問題なのでしょう。

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ベストアンサーに選ばれた回答

bor********さん

2013/1/1110:46:28

他人の気持ちを思いやる心でしょうか。
しかしそれがなかったらこそあそこまで行けた、とも言えます。
人の心なんか思いやっていたら戦国時代は生き残れません。

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ベストアンサー以外の回答

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yai********さん

編集あり2013/1/1116:08:12

>>本能寺の変で明智光秀に暗殺された織田信長は、
>>何が不足してこの様な事態となったのでしょうか?

「共和・分権・分益」が必要でした。

まず「織田信長政権」の間に起きた事象ですが
下記から「不測の事態」が多すぎます。

各地の「国人衆」や「民衆」からの
「一揆、謀叛」に
「同盟者の叛旗」に「家臣の謀叛」などなどです。

1568年 堺の商人衆叛旗
1570年 妹婿浅井長政が叛旗
1570年 杉谷善住坊による狙撃事件
1573年 将軍足利義昭対立
1573年 上京焼き討ち(京の民衆へ乱暴狼藉)
1575年 越前一向一揆(なで切り、人狩りを行う)
1575年 波多野秀治・別所長治反旗
1576年 天王寺の戦い(信長負傷)
1577年 松永秀久謀反
1578年 荒木村重謀反
1581年 天正伊賀の乱(伊賀国人一揆)
1581年 高野山反旗
1583年 本能寺の変

これ以外に「一向一揆」があり
「織田信長の治世」は「一揆、叛旗、謀叛」の
連続です。

信長に謀叛をした者たちは
「将軍」から「民衆」まで立場は様々でしたが
一様に怒っているのは
「織田家の中央集権化」の施策に対してです。

1、「堺・京」などで武力・乱暴狼藉をもって
「矢銭」の徴収。逆らえば焼き討ち。

2、「楽市楽座」「関所撤廃」により
「寺社・国人衆」の利益を奪い
「織田家」が利益を独占。

3、「3」の施策で「京~南近江」の街道に
流通が集約され他が潤わない。

4、「1~3」の行いのため「商人」が
生き残るためには「織田家」の「御用商人」化と
なるしかなくなる。成れた者は良いが
成れなかった者は不満を募らせ「闇商人(闇市)」を
行い始める。

5、「検地」により「国人衆」から
「加地子」を取り上げ「織田家」の利益に。

6、「5」の上で「公家」の借金は帳消しとする
「公家への徳政令」を出すなど権威層への優遇措置。

7、自軍を「公儀軍」として逆らえば「征伐」し
「領地」を取り上げ。


上記のような「織田家」の独裁と
「織田家」のみに富が集まる「政策」に
多くが叛旗を繰り返しているといった状態でした。

>>光秀の謀反を回避して、信長が天下統一をするには
>>何が必要だったのでしょうか?。

「源頼朝」は「御家人」に領地を安堵し
その後「北条執権時代」に「北条家」は自身の
「家子、奉行衆(親衛隊)」を持ち
「得宗専制(独裁政治)」を長年、続けました。

「足利尊氏」は盛大に「守護大名」に領地を分け与え
「足利義満・義教」の時代に「奉行衆」という
「親衛隊」を持ち各地に遠征させ
長い政権を維持しました。

「徳川家康」は「譜代に権利」を
「外様に領地」を分け与え「御三家」
「老中制度」を確立し世界有数の
長寿政権を創始しています。


上記から見るに「織田信長」は自身や「織田家」への
「利益集中独占」を辞め
「外様・民衆」へ利益を分け与え
自身の「権利」を分かつ「老中・親衛隊」などを
創設すべきだったと推察できます。

そのため「織田政権」を存続するには…

1、「織田家」の独裁、利益集中政策を辞める。
2、「信長独裁体制」を辞め「外様・国人衆に領地安堵」。
3、「信長独裁体制」を辞め「老中、親衛隊」などの
「権利」を持った側近集団の創設。

上記の体制の上で「各種諸法度」など法令も作るべきと
推察ができます。

zik********さん

2013/1/1115:44:23

ものすごく単純な答えで申し訳ないのですが……信長がもう少し光秀を慮る、あるいは認めてやればよかったんじゃないですかね。信長の光秀に対する仕打ちは創作も多いのですが、信憑性の高いとされるものの中には、おいおいと思わされるようなものがあります。

武蔵さん

編集あり2013/1/1823:18:09

信長は人事管理で失敗しました。譜代の功臣、林、佐久間を追放してしまったために信長家臣団はパニックに陥った。林、佐久間の追放劇を観て光秀も次は自分が追放されるのではないかと恐慌に陥り本能寺の変を起こしたのではないかと私は推測しています。
譜代の林・佐久間は隠居させ後、今までの功を労い所領を安堵して置けば光秀の謀反を防ぐことができた。

ama********さん

2013/1/1113:21:29

信長最大の失敗は足利義昭を伴い上洛を果たした事です。これを利用するにあたり和田惟政を登用する羽目になり惟政を介してフロイスを、フロイスを介してヴァリニャーノを、ヴァリニャーノを介してヤスケを紹介されてしまいました。ヤスケと知り合わなければ、本能寺は避けられました。

ino********さん

2013/1/1112:38:48

光秀が謀反を起こした経緯は諸説ありますが、決定的なものはわかっていません。光秀の逆鱗に触れた理由がわからない以上、心理的に光秀の謀反を防ぐのは難しいでしょう。

もっとも簡単なのは、さっさと光秀を殺すというものでしょうが、それはそれでできなかった理由もあり、本能寺の変は歴史の必然ともいえるでしょう。

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