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意識と物質に関する質問は、回答者8名でしたが、 回答がそれぞれに充実していた...

bai********さん

2013/3/2921:14:42

意識と物質に関する質問は、回答者8名でしたが、
回答がそれぞれに充実していたと思います。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1310469559...

swtn0729さん
『オッカムのカミソリですよね。』

そういう感じのところはあります。

ryujyuhokekyoさん
ベースとなる考え方の前提がこの質問に限らず、
いろんな面であなたと違っているように感じて
います。

himorogi_agnosさん
あなたのご回答がBAでもよかったのですが、
ピースケさんのは閲覧者に分かりやすいと思った
のです。

sirayukimasiroさん
考え方の前提がかなり違います。

motorcycle1129さん
本当はそうなんです。

swtn0729さん
ピースケさんやhimorogi_agnosさんの回答を踏
まえて、再度ご考察願えればと思います。

ーーー

質問:
ピースケさんやhimorogi_agnosさんの回答を踏まえて、
意識と物質というものについて、再度ご考察ください。
そしてその結果を教えてください。
お願い致します。

補足まず、始めにご回答戴いたお二人。
higejiziii69さんは今日初めて哲学カテにやって
来られたそうです。私の最近の質問に連続で注目
すべき回答を下さり、今後とも注目していきたい
と思っております。

niponnianipponさんのご回答、
えッというような驚きの回答でした。そのベイト
ソンという人のことは知らなかったので。
ものすごく勉強になります。
意識と精神に関する私が抱く概念は、だいたい
あなたが言われた通りだと思います。

閲覧数:
260
回答数:
6

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ベストアンサーに選ばれた回答

hig********さん

2013/3/2921:49:21

「エッシャーの騙し絵のように、壁に精緻に描かれたドアを、おれたちは「ドアがある」と信じてるのかもしれないって。」

ピースケさんのご意見はすばらしい補助線となって、himorogi_agnosさんのご意見に繋がっています。

私も言語ゲーム論に賛成です。

「騙し絵に騙された」というのは、「騙されたと知ってはじめてわかる」ことです。
たとえばその騙し絵を見たのが私一人であり、その後その絵がなんらかの理由でこの世からなくなってしまったら、そこには「ドアがあった」ということになります。(というか、そうとしかいえないよね…)

それがドアではなかった、ということは私の意識だけではなく、複数の他者の意識がその現象を閲し、「客観的な答」として「それドアじゃないよ」と「承認」するからです。(この経緯を「言語ゲーム論」を提唱したウィトゲンシュタインは、ホームズの『まだらの紐』を題材にして説明しています。)

ただ、これをもって、「意識がすべて」とはいい得ない。(「意識の定義」が何であるかによりますが…)

(説明が厳しいところなんですが…)というのはその「承認」のゲームは複数の人間の間での言語活動によって行われるものであり、その総体が言語ゲームだからです。このような人間の参加する言語ゲームの内部において、「何かある物質が存在する」といわれていると考える。(「確実性の問題」)

もちろん、物質の存在に気付く、その発端にあるものは「意識」ですが、言語自体が後天的に情報あるいはその体系として個人の意識に外部から挿入された(あるいは常にされ続けている)ものである以上、外部の他者や環境(世界全体)が「物質の認識」とか、「その存在の確信」に深く関与しているといわざるを得ないと思います。

質問した人からのコメント

2013/4/4 09:28:53

あなたのご回答はもちろん納得ですが、他にも
niponnianipponさんのご回答はじめ回答が充実
し過ぎていて、本当に困りました。
こういうテーマに多くの閲覧者がいることも自分
としては嬉しかったです。

ありがとうございました!

ベストアンサー以外の回答

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sir********さん

2013/3/3012:50:56

物質の自己運動がすべてです。意識、精神は、物質の反映ですから、本来は無力なのですが、この複雑な現代社会では、意識、精神が、あたかも全知全能の完全神話となることができるのです。
福島第一原発の事故、こちらが物質の事故運動です。
全知全能の安全神話が木っ端微塵に粉砕されました。しかし、そのことに気が付いている哲学者、国民は、まだ少数です。ねずみが配電盤で感電死して、停電しました。これも事故運動です。あれ、3月11日にも、多重安全のシステムで、電源が複数確保されていたのでは?
2年たっても、複数電源が確保されていないの?
という具合に、哲学の根本問題は、人類の危機に、どう対処するか、対処できるか、だから、根本問題なのです。
空論ではなく、具体的な危機に、物質の自己運動と考えるのか、全知全能の完全神話で考えるのか?
どうでもよい問題ではないのです。国民の生命、財産、生活に関係することなのです。

swt********さん

編集あり2013/3/3009:43:39

大体はこんな感じだと思います。抜けちゃってる要素もあるでしょうし、何より変な絵ですが。
一応解説すると、
『現実(?)』純唯物論的世界として考えておきます。ま、認識を通してしか世界を見れない人間には絶対に感じられない世界で、今はあったほうが良いので置いておくだけです。
『認識』認識です。根本誤謬があります。

『認識系』現実世界を適当に認識してシミュレータに認識を渡します。
『希望系』何か希望します。
『シミュレータ』演算機と言っても良いでしょう。認識と希望の差を無くす方法を考えます。
『司令系』シミュレータが出した結論通りに動くよう行動系に命令します。
『行動系』行動します。
こういう意味で書いてます。
あと、文字が潰れてしまっているのですが、上の人間の頭には『私』、下の人間の頭には『自意識』と書いてあります。

そういうわけで、どうしても自意識が芽生えちゃうし、認識世界は『我思う故に我あり』の世界になってしまうのです。

大体はこんな感じだと思います。抜けちゃってる要素もあるでしょうし、何より変な絵ですが。
一応解説すると、...

miy********さん

2013/3/3002:27:37

いやしくも「意識」という言葉を使う場合、意識は人間のみに備わった能力と言えよう。
意識の「意」はおおまかに言えば想いとか心という意味であり、「識」とは知という意味である。従って、意識となるとそこにはただ「気づく」と言うだけではなく、当然時空の観念とか因果律の観念を有した「知」の色彩を帯びてくる。
感知とか察知とかという「気づく」と言った働きなら、猿や猪や、さらにはサボテンや稲などの植物にでも備わっていると、すでに実証済みである。もしかしたら、精子や細胞といったレベルでも、そういった感知能力は備わっていると言えるかもしれない。
それでは、さらに言えば「意識」とは何か。脳に備わった知覚能力とも言えるし、自我の本体とも言えよう。非常に曖昧なのである。例えば自我の本体と言っても、そんなものの存在を証明するのはむつかしい。仏教でいうところの「霊性」とか「魂」とか「仏性」とかと言っても、そんなものの実体は誰にもわからない。
あなたの質問の主旨は、あたかも次のようにも喩えられよう。つまり、宇宙誕生は霊性(意識)によるものか、それとも霊性(意識)は宇宙誕生によって生まれてきたものなのかと。この霊性をさらに深めて言えば、神という言葉に置き換えてもいい。
話は変わるが、現代の物理学、天文学では、相対性理論と量子力学との統合理論が生まれようとしている。あと10~20年もすれば、「紐(ひも)理論」としてそれが叶うだろうと言われている。素晴らしいことである。神の力を借りないで、神の領域に踏み込もうとしているのである。知れば知るほど、私たちのいるこの世は人知を超えた素晴らしい奇跡の連続によって存在しているのだ。現代物理学がそれを証明している。
もう少し突っ込むと、私たちの身体に内在する生命、その基はエネルギーである。太陽のエネルギーによって培われた生物を摂取し、私たちの体内でグルコースや脂質としてエネルギーに変化するのである。それが細胞を賦活させる。しかし、その細胞をプロミングしているのは遺伝子である。遺伝子という設計図なのだ。しかも、この遺伝子はアミノ酸による化合物であり、いわば結晶である。結晶というかぎり、それは生き物ではない。つまり、設計図はエネルギーを超えたところにあるということなのだ。設計図は随所に点在し、エネルギーによって機能する。この実体を、なんと説明すればいいのだろう。
生命とは、大きな調和。そして、それを機能させているのが全ての細胞に備わったDNAという結晶である。DNAによって新陳代謝が行われ、生命の調和が保たれている。
以上のこと参考になれば幸いだが、「色即是空、空即是色」、「物心一如」といったところでしょうか。

sam********さん

2013/3/2922:27:39

殿。

前質問文からパッと思いついたのは「匂い・味」についてでございます。

「匂い・味」のもとになる「物質(とりあえず)」はあるのでございますが、その「物質」は「匂い・味そのもの」ではございません。

我々が知覚して初めて「匂い・味」なのでございます。

例えば純粋な水は「無味無臭」すなわち味もなければ臭いもないとされているのですが、それはあくまでも人間にとってであって、蛍にとっては「こっちの水は甘いぞ~、あっちの水は苦いぞ~」なのかも知れません。

また、「匂い・味」がある物質があっても、鼻や舌がなければそれを感じることができません。

我々の認識は肉体(物質、とりあえず)の制約を受けているなぁ、と感じるのでございます。

この辺についてはどのようにお考えでしょうか、殿。

「匂い・味」は一体、なんなんでしょうか?

nip********さん

編集あり2013/3/2923:06:01

ピースケさんの整理で白鳥さんのイイタイことが、ようやっとわかりました。
白鳥さんは「意識」という言葉を一般的な定義で用いていないので、質問の真意が
大変わかりづらくなっている。
白鳥さんは人間や動物など脳を持っている生きもの以外にも意識がある
と主張したいのですね。
白鳥さんの「意識」を「精神」という言葉に置き換えれば、
私は全面的に白鳥説に賛成です。
この場合の「精神」も一般に理解されている定義とは異なります。
アメリカの哲学者、グレゴリー・ベイトソンは『精神の生態学』などの著作を通して
人間や動物などの生きもの以外にも「精神」の存在を主張します。
ベイトソンの言う「精神」とは、ある一定の反復するパターンのことです。
たとえば巻貝の立体構造を典型的な例として取り上げます。
巻貝は外面的にはさまざまな渦巻きの形をとっていて個性的です。
しかし、形はそれぞれ違っても、すべて特定の数式に基づくもので、
形の相違は変数をわずかに変えたにすぎないのです。
近年では、葉脈、樹形、河川の支流の 流れ、リアス式海岸、雲などの
複雑さに 潜む規則性をマンデルブロ集合で表現することが
できるようになりました。
この規則性もベイトソンのいう「精神」にあたるものといえるかと思います。
私は詩を好んで読みますが、そこには独特の音韻のリズムや
詩形のパターンが織りこまれています。
私たちが詩に感動するのも、
単に言葉の意味やメッセージに対してだけではありません。
こうしたリズムやパターンに込められたポエジーを味わうことで
その感動はよりいっそう深まるのです。
自然の美しさに目を奪われ、詩文に感興の意を催すのは、こうした
自然やことばの奥底に潜む「精神」を発見するからだ。
「精神」が「物質」をつくり、私たちの「精神」もまた「物質」の持つ
「精神性」に共震するのは以上の理由によるものなのだと考えます。

ピースケさんの整理で白鳥さんのイイタイことが、ようやっとわかりました。...

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