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石田三成の忍城水攻めが失敗したのは何故ですか?

dae********さん

2013/6/821:51:49

石田三成の忍城水攻めが失敗したのは何故ですか?

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ID非公開さん

編集あり2013/6/823:14:37

最新の史料研究では、忍城の水攻めは無かったという説が濃厚になりつつあります。


忍城の水攻めは「関八州古戦録」や「成田記」に書かれており、
それによれば
堤防によって城の廻りに水がたまり始めたが、
ある日突然大雨が降りだして堤が決壊。
濁流は城ではなく、寄せての三成らに襲いかかり水攻めは失敗。
というものです。

しかし、この「関八州古戦録」は江戸時代の中期(18世紀)に書かれ、
「成田記」の方は江戸時代末期(19世紀)に書かれた物語で
史料としての信憑性は低いとされています。


実は、第一級史料には忍城の水攻めの記述がありません。
また、当時忍城攻めに出陣していた各大名の書簡にも
水攻めをしたということが書かれていません。

現在の専門家の間では
「水攻めを行う前に忍城は開城した」という見解が多勢を占めています。

当時、忍城攻めを開始した直後に
石田三成が浅野長吉に宛てた書簡が現存していますが
それにはこう書かれています。
「忍之城之儀、御手筋を以て、大方相済に付けど、然る処、諸勢水攻之用意候て押寄る儀これ無く」

つまり、
「忍城攻めの準備は順調にすすんでいるけど、
みな水攻めをするものばかりだと思いこんで
城に押し寄せようとする気もない。」
と、三成の愚痴が書かれており、
この時点で水攻めの準備はしているが、水攻めと決まっているわけではなく
状況をみながら臨機応変に戦う戦略があることが伺えます。


同様の書簡には、水攻めは無理っぽいという言葉もあることと、
実際に堤防を作っていることから、水攻めも視野に入れた
他面作戦だったことが伺われます。
(水攻めは秀吉の指示だったという説もあるが、秀吉の右筆が書いた方の本当の太閤記の方には水攻めの指示は書かれていない、また秀吉の命令書も存在していない)


そして、何よりも決定的なのが
堤防が完成する前に小田原本城が降伏し、その1週間後に忍城が開城している事実と、
忍城の開城直前に一部で小競り合い的な戦闘があり、
それは堤防を作っている最中の出来事だという書簡が現存していることです。

ということは、物語ではない事実は
堤防完成前に忍城が開城したために
水攻めは行われなかったということです。

事実、開城時の書簡にも水攻めがおこなわれた記録はありません。
また、布陣した各大名の書簡にも水攻めが行われた記録はありません。

あるのは
「みな水攻めだと思いこんで、ろくに城に押し寄せもしなかった」
という記録と
「堤防が完成する前に小競り合いがあり、小田原開城後まもなくして忍城も開城した」という記録です。

質問した人からのコメント

2013/6/15 14:31:40

成功 たいへん参考になりました。
皆様、ありがとうございました!

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kui********さん

編集あり2013/6/1513:51:19

他のご回答者さん多くのご回答のとおり、史的なアプローチからは様々な
要因が挙げられると思います。
私はこれらの史料は全く不勉強なため回答する資格もございませんが、
これを良い機会と捉えて次の科学的検証をしてみました。皆さんの参考と
なれば幸いです。

私が設定した検証命題は、
「忍城を水没させるには、どれくらいの日数がかかるのか」
です。
水攻めの場合、物理的な手順として次の手順となります。
(1)堤を完成させる。
(2)水を入れる。
(3)城域を水没させて、籠城の意思を挫く。
このうち(1)堤の完成は、当時の人夫の動員可能人数や普請体制の検証が
難しく、また(3)は政略的な史料の検証問題なので、私はこれらを除外し、
(2)のみを検証いたしました。


(a) 堤の大きさと水没容積

石田堤の全長は、14kmとも7里28kmとも言われます。
まずは小さい14km説を検証します。

http://gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-f553.html
この大正時代に実測された堤の図を見ると、元荒川と忍川を採り込む
ような堤が形成されていたことが判ります。
この水没容積を計算するために、標高を国土地理院の標高地図から算出
して、各要所を見ました。
http://saigai.gsi.go.jp/2012demwork/checkheight/index.html
・ 最低部:下忍付近で標高:約17m。
・ 忍城本丸:行田市郷土博物館付近の標高表記:20.8~20.9m。
・ 堤の最端部:白川戸付近:約20m、久下付近:約21m。
城水没を標高21m以上とすると水没域は、北西は星宮、北東は堤の
白川戸、南東は堤の下忍、南西は久下、となり全域では
「東西4km、南北5km、面積20km2」
「上記の面積を水没させ、最深部4mでようやく本丸が水深0m」
となります。
水没容積は傾斜地の平均水深を2mとして、
「水没容積:約40000000m3」
となります。

(b) 流入水量

上記14km説では、旧荒川と忍川を水源とします。
旧荒川は、江戸時代に熊谷市付近から瀬替えが行われ現行の水路になり
ましたが、当時は現在の旧荒川を流れていました。上流の流域面積は
現在と変わらないので流量は現代の荒川と同じです。
また忍川の流域面積は荒川とケタ違いに小さいので、この水攻めでの
流入水量は荒川流量が支配的であったと言えます。
至近の大芦川観測所の流量は、次から調べました。
http://www1.river.go.jp/cgi-bin/SrchWaterData.exe?ID=30304128330804...

季節によって流量傾向も変わりますので、水攻めが始まって堤が一度
決壊したと言われる6月17日から、開城したと言われる7月16日までの、
最近10年の流量を調べました。(旧暦1590年6月17日・7月16日は、
新暦7月18日・8月15日です)
この荒川流量が、上記の40000000m3に達するまでの日数は、次の通り
となりました。(必死に手計算しました。。。)
1992年: 要17日
1993年: 要 9日
1994年: 要18日
1995年: 未達
1996年: 要25日
1997年: 未達
1998年: 要13日
1999年: 要 5日
2000年: 要15日
2001年: 未達
平均 = 要18.9日。 つまり、

「流入を始めて本丸に水位が達するまで、平均19日間がかかる」

というのが科学的結論です。
7月3日付書状で、皿尾口攻めが行われていた事が記録されています
が、つまりは堤の補強工事や水の流入にダラダラと時間がかかって、
城まで水位が達していなかったのでしょう。この考え方なら、全ての
一次史料と合致できそうです。
小田原開城まで結果的にわずか1ヶ月しかなかった状況では、これは
致命的な時間の浪費だったと思います。つまりは、秀吉が指示した
水攻め法では、落城は難しい運命だったとも言えるようですね。

秀吉の備中高松城・紀伊太田城の水攻めでは水没面積が2km2で忍城
水攻めのわずか1/10でしたから、籠城戦にも影響を与えませんでした。
また忍城の決壊と同様に太田城攻めでも決壊が発生しており、堤の補修
と水の入れ直しがありました。
(上記28km説ですが、利根川の流量も期待できますが同時に忍城から
15kmも離れた流入口からの、上記を遥かに超える莫大な水没容積が
必要となりますから、これも実現不可能だったのでしょう)

yai********さん

編集あり2013/6/1215:22:52

>>石田三成の忍城水攻めが失敗したのは何故ですか?

長々と他の方とも「議論」を重ねたのですが
その結果をご報告します。

1、「水攻め」のための
「石田堤(全長28kmにおよぶ堤防(内工事個所1~2km)」を
建造したが水嵩に耐えられず決壊し失敗に終わった。
(「関八州古戦録」より。)

2、「水攻め」のための「石田堤」を造ったが
工事が間に合わないなど失敗に終わった。
(「秀吉、三成、長政」などの書簡のやりとりなどから。)

3、「水攻め」のための「石田堤」を造ったが事故などがあり失敗に終わった。
(1・2の折衷案)

などの理由が推察されるようです。

kan********さん

編集あり2013/6/1408:46:32

軍記物というジャンルの「物語」が流布したことから、通説では失敗したと見るのが一般的です。しかし、確かに当時の書状のやり取りを見ると、石田三成が水攻めを考え、堤を決壊させて城を水浸しにし、堤が壊れて豊臣軍に大ダメージが与えられた様子はみられません。以下、軍記物と一次史料から戦の経過を比較します。

軍記物(『成田記』など)による通説では
●1590年6月4日 石田三成らが忍城を包囲
●7日 力攻めに失敗したことから、三成は水攻めを思いつく。5日間で28キロの堤が完成
●17日 大雨になり、堤が壊れて豊臣軍に大被害
●7月16日 開城
という流れです。この間にたびたび合戦もあり、豊臣側がいいように敗れています。

書状のやり取りを見ると、
●6月13日
浅野長政・木村一が石田三成に軍勢引き継ぎを要請
石田三成が「諸将が水責めの用意をしていて城攻めをする気がない。まずは力攻めすべきではないでしょうか。助命願いが出ていますが、城から敵が出た場合は攻撃すべきでしょうか」などと、直前まで大将を務めていた浅野に引き継ぎに当たっての問い合わせをする。
※このやり取りを見ると、石田三成が忍城大将となった時にはすでに水攻めの準備が進んでいたこと、三成が大将となったのは13日だと分かります。
●6月20日
秀吉が石田三成に書状を出し、堤の普請絵図を見た上で、浅野・真田昌幸を派遣するので相談して作業を進めるよう指示。
※まだ堤が完成した様子がうかがえません。
●7月3日
秀吉が浅野に書状を宛てて、「首30を取り皿尾口を破ったそうだが、地図を見れば破って当然のところだ。とにかく水責めにしろ」と命じる。
※秀吉の水攻めへのこだわりと、まだ水攻めした様子がないことが分かります。また、秀吉が直接指示していることから、浅野が大将に復帰したことがうかがえます。戦闘はたびたび行われており、城の周辺が水没していたようには受け取れません。
●7月6日
秀吉が上杉景勝、前田利家に忍表に向かい、堤を丈夫にする工事を手伝うよう指示。
「完成したら見物しよう」と述べている。14、5日には完成するとみている。
※堤はまだ完成していないことが分かります。前日に小田原城は開城していますが、それでも秀吉は水攻めにこだわります。急いでいる様子もないです。
●7月23日
徳川家康重臣の榊原康政が浅野長政に対し、「お手柄は書状に書ききれない」と忍城攻撃を称えます。ほかにも多くの武将が長期の工事などについて浅野をねぎらい、武功を称えており、あまり忍城攻撃を失敗とみている様子が窺えません。浅野は5日の戦闘で負傷したようで、激戦だったのは間違いないようです。
※忍城攻撃が失敗だったとは見えません。大失敗なのに「お手柄」だとしたら皮肉の言葉になってしまいます。


軍記物でいうなら、石田三成が無理な工事を考えつき、無理に短期間で終わらせようとしたということに尽きます。ただ、上記のように実際の書状のやり取りをみると事実はだいぶ異なることが分かります。

tar********さん

2013/6/1201:36:13

石田堤は全長約30kmとそれまでの堤防と比べ
3倍ほどの大きな物で水が溜まるのも遅かったでしょう。
※そのうち工事した箇所は1~2kmとされます。

そして大雨により水は溜まったようですが
その後、堤防が決壊し味方にいささかの被害が出たと
史料にあります。

ですのでそれまでの8kmほどの堤防に対し
約30kmという堤防とその水の量に見合った技術は
当時、なかったのではないでしょうか?

失敗理由は石田堤の設計ミスか工事のミスが原因だと見られます。

kum********さん

2013/6/910:41:14

三成の設計ミスです。

30km近い堤防で水を
貯めるには厚さが
足りなく崩壊して
水がたまらなかった
からです。

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