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羽柴筑前守秀吉の呼び方

kak********さん

2007/2/2601:25:06

羽柴筑前守秀吉の呼び方

羽柴筑前守秀吉など
~守(~のかみ)
と呼び方がありますが、

なぜ、秀吉は当時近江(滋賀県)の領主だったのに
関係のない筑前(九州)の守と呼ばれるのでしょうか?

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uni********さん

編集あり2007/2/2612:47:36

○○守というのは、律令制で定められた、国司(朝廷から各国に派遣される行政官の長官の役職名。今でいう県知事)のことですが、時代が下がって武士の時代になると、武力で支配権を確立した武将たちが、その正当性を主張するために名乗るようになっていきます。(つまり、武力で支配しているだけではなく、きちんと朝廷から認めてもらっている、というお墨付き)

さらに時代が下って室町時代後半(戦国期)になると、下克上で成り上がった武士たちが勝手に名乗ったり(僭称)、主君が恩賞として家臣に授けるようになっていきます。(官途書出あるいは受領書出、官途状などと言います)
この頃になると、○○守というのは主君から与えられた形式だけの官位ですので領地・支配地とは何ら関係なくなってきます。

ですから、秀吉の筑前守や光秀の日向守ばかりでなく、信長の上総介(介は守の次の位。上総国は親王任国といって、親王しか守になれない決まりだったので、介が実質的な長官になる)も、領地とは何ら関係ありません。
強いて言えば、信長は九州の平定構想がありましたので、秀吉に筑前守、光秀には惟任の姓(九州の名門豪族の姓)と日向守(宮崎県)、丹羽長秀に惟住(これも九州の名門豪族の姓)を与えており、九州の支配権を確立したときの既成事実を意図していたようです。

ただし、家康はこの頃、出身地である三河の豪族を束ねて支配権を確立し、朝廷に申請して正式に三河守に任じられていますので、まだこの時代は領地に関係のある人・ない人が混在しています。(「巧妙が辻」の山内一豊も対馬守でしたが関係ないですね)

秀吉以降の時代になると、秀吉が関白として公家の最高位に就いて政権を立てたこともあり、国名だけでなく、朝廷の役所の官職名も実際の仕事とはまったく関係なく名乗られるようになっていきます。
石田三成が治部少輔(朝廷で戸籍や儀式を管理する治部省の三等官)、大谷吉継が刑部少輔(朝廷で司法を管轄する刑部省の三等官)を名乗ったのがこれで、江戸期以降は、家康の重臣である酒井家も雅楽頭(=うたのかみ。治部省の下に設置され、儀式で演奏を行う役所である雅楽寮の長官が雅楽頭)、井伊家が掃部頭(=かもんのかみ。宮内省の下で宮殿の掃除や支度をする役所である掃部寮の長官)を名乗ったのもこれにあたります。
忠臣蔵の浅野内匠頭もこのパターンですね。

秀吉は関白になって豊臣の姓を朝廷からもらった後、「羽柴筑前守」という称号を前田利家に贈っており、江戸時代以降も前田家は「羽柴筑前守」という称号を使いました。

徳川幕府が成立すると、幕府は禁中並公家諸法度や武家諸法度という法律を制定して、こうした官位のルールを整備し、幕府を経由して朝廷から許可を受ければ名乗れるようにしますが、大名が細分化されたため、その国を丸ごと支配している大名がほとんどいなくなり、完全な名乗りだけの称号になってしまいました。
ですから同じ伊豆守といっても名乗りの許可さえ受ければ同時に何人も存在したりしますし、大名でなくとも旗本クラスでも名乗れるようになります。

大岡越前守とか吉良上野介(上野守も親王任国なので次官である介が実質的長官)などがこれにあたります。
ただし、江戸時代は、実際にその国を一国丸ごと支配している所はその大名以外(薩摩・大隈の島津家、陸奥の伊達家、土佐の山内家、筑前の黒田家など)は名乗れませんでしたし、将軍のいる武蔵、天皇のいる山城などは禁止され、また大老や老中と同じものは名乗られませんでした。

質問した人からのコメント

2007/2/27 22:17:39

降参 詳しい内容をありがとうございました!
他の方も回答ありがとうございました

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aeg********さん

2007/2/2615:17:47

織田信長の天下布武を実行するための一方途です。
官職制度を利用して、いずれ九州を制圧するためのデモンストレーションです。
筑前国は、往古、九州を統括する大宰府があった地であり、その国司に任ずることによって、九州を押さえようとする意図が内在しています。
さらに、明智光秀を日向守に任じたのは、薩摩・大隈の両国の守護大名である島津に対して睨みを利かせるためです。
そして、筑前にせよ、日向にせよ、同地に赴くとなれば、京都と九州との間にある中国地方を経なければならず、
それらの地方も刈り取るという意味合いもあり、そのことは同地に勢力を張っていた毛利氏に対する挑戦でもありました。
一方、信長の息子である信忠に対しては、出羽介(後には、秋田城介に遷任)に任じ、東北地方に対しての威圧であった。

pha********さん

2007/2/2601:53:40

当時の武家官職の制度は実質崩壊しており、本来朝廷から任命されるべきものが自称や実力のある大名が臣下に与えているような状態になりました。(朝廷には事後承諾を求める)

この場合の羽柴筑前守は主君の織田信長が与えたものです。当時天下統一を目指していた信長は、中国(毛利)平定の後に九州討伐を目論んでいました。そのため秀吉に筑前守を与え、筑前の守護職であるイメージを持たせたのです。
同時期に明智光秀に「日向守」を与えたのも同じ目的です。また、光秀には「惟任」の姓を名乗らせています。これは九州の名族の姓名で、九州征服の際の人心掌握対策だったと思われます。

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