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歴史の面白い話やエピソードを教えて下さい。

yam********さん

2013/7/2216:37:42

歴史の面白い話やエピソードを教えて下さい。

夏休みの課題に歴史の宿題があります。
夏休み明けに廊下に張り出すので、皆が「へぇー」と思えるような
面白みのあるものが良いです。
調べたのですが足りないのです。
出来ればあまり知られていない、短い文で伝えられるものが良いです。

補足歴史人物に関してです。

教科書に載っている名前が本当は違う
だとか
肖像画は別人
などです。
西郷隆盛、聖徳太子などは知っています。

それと、
ふっ、と笑えるような面白いエピソード
なども知りたいです。
調べてもなかなか当てはまるのが
出て来なかったので…。

よろしくお願いします。

閲覧数:
672
回答数:
2

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ベストアンサーに選ばれた回答

aja********さん

編集あり2013/7/2312:12:57

どんなのを調べてて、どの辺のことに興味あるのかくらい書いた方が、答える方も答えやすいかと

戦いに際して、武田信玄は
「勝たせてくれたら、これだけの所領を神社にやる。だから勝たせろ」
と神に祈り、
上杉謙信は
「これこれこういう事情で、俺の方が正しい。だから勝たせろ」
と祈っていた

そんな2人に対して、「京都にいらっしゃる時は、是非お声かけ下さい。私めがあなた様の馬を引いて(今で言うと運転手をかって出て)京都をご案内致しますm(__)m」と、卑屈なほどにへりくだった手紙を送ってきた者がいる。織田信長という人である
勝てないと判断すると、なりふり構わずに下手(したて)に出たり、逃げ出したりして、生き延びるのが、信長の凄み

「天下統一」を目指して戦った初の戦国大名は、織田信長。豊臣秀吉、徳川家康辺りはそれを真似たが、ほとんどの大名は「天下統一」には興味がなく、所領の拡大だけを目指していた

豊臣秀吉の手には指が6本あったらしい

従兄弟同士でもある豊臣秀頼と徳川忠長(家光の弟)は、ともに母親に溺愛されるが余り滅びへの道をたどった。秀頼は家臣と切り離され、忠長は兄に憎まれて
家光は自らを「二世将軍」「二世権現」と名乗り、父・秀忠を「いなかった」ものとして扱っていた

徳川吉宗は180cmの大男…今で言うと2mくらいの巨人だった
と言われているし、実際そういう記録もあるが、遺された(等身大で作る)位牌?の大きさは当時からしても普通サイズ

一方が満12歳、もう一方が新生児のときに生き別れ、会ったことがあるかどうかすら定かではない2人の男。片や関東で勇猛な坂東武者として育ち、片や京などで公家文化の影響を受けて育った(生母・乳母に関する研究で明らかになっている)
これが33歳と21歳のときに「再会」した。実際問題、互いに「兄弟」と思っていたかどうか…
源頼朝と源義経のことである

後世、美形な扱いをされる源義経は、実は割と小顔だが平たい顔族全開。一方、頼朝は公家が日記に書き残すほどの「美男子」。当時の基準では「顔がデカい=美男子」だが(´∇`)

幕府の創立者でありながら、他の2人と違い、割と飛ばされがちな足利尊氏について…
足利高氏(尊氏)と直義(ただよし)は兄弟仲良く育ち、大人になってからも、兄は「自分はもう出家して仏様に仕えるので、弟が健康でうまいこと政治を執れるようにしてやって下さい」と祈るほどだったが、政治的な成り行きで、最後は兄が弟を殺すというバッドエンドになってしまった(;_・)

足利家は関東屈指の名家で、高氏の「高」は時の権力者「北条高時」から貰ったもの。鎌倉幕府滅亡後に「尊氏」と改名。これは後醍醐天皇の本名「尊治」から貰ったもの。当時、有力者から名前を貰うというのは、すごく栄誉のあることだった(後醍醐と敵対してからも、ずっと「尊氏」を使い続けた)

足利家は名家で、後に権力も握ったため、色んな人からの贈り物が後を絶たなかった
尊氏は鷹揚に全て受け取り、自分は取らずに全て家臣や来客に分け与えた。直義は「ルール的にそれは受け取らない」として、どうしても受け取らなかった

尊氏は気分が乗ってる時とそうでない時の差が激しく、乗ってるとオラオラな勢いでバァーっといくが、そうでないと「いや、どうせ俺はあかんねん。もう坊さんにでもなるしかないんや(T_T)」と出家したがっていた

足利家を含む武士全体と建武政権の対立が激しくなってきた頃のこと
尊氏は鬱ってて、いつもの通り「もう出家して、天皇はんに赦して貰うんや」と引きこもっていた
直義は、足利家や武士の生活がたち行かなくなると判断し「兄ちゃん、天皇はんは、出家しても赦さん。坊主になっとっても殺すって言うてはるらしい」と言って、無理矢理尊氏を「やる気モード」にさせた
実際にそうなるのは、この後のことで、この時点では「嘘」(/- -)/

江戸時代、客を集めて話を聞かせる講談やお芝居は、大人気メディアだった。中でも、南北朝前後の話を扱う「太平記読み」はキラーコンテンツ。特に、楠木正成は超人気者
なので、連続公演でダレて、客の入りが悪くなると、入り口に「本日、大楠公(だいなんこう=正成)登場」と貼り出す
ストーリーと全く関係なくても、正成が死んだ後の話であっても、唐突に「そこに大楠公が通りがかって…」と通行人役をしたりして、拍手喝采を受け、去ってゆく(笑)

まだまだあるけど、あとは省略

っていうか、なんで途中、関東人の足利兄弟が関西弁やねん(゜o゜)\(-_-)

質問した人からのコメント

2013/7/24 18:57:01

降参 出来るだけ多く知りたかったので
少し期間を置かせてもらいましたが
回答がもう来ないと思うので
BAを選ばせていただきました。
数も面白いものも多かったので
BAにしました。
お二方回答ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

2013/7/2309:00:58

中国人は 過去、「食人人種」だった。
三国志演技でも、「自分の息子を、劉備にたべさせる」場面が 美談として書かれている。

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