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戦国時代に播磨国は広い土地だったのに、何故に播磨や但馬を統一する有力な戦国大...

ben********さん

2013/12/2914:54:28

戦国時代に播磨国は広い土地だったのに、何故に播磨や但馬を統一する有力な戦国大名が現れなかったのでしょうか。
赤松が守護大名でしたがやがて、龍野赤松氏とかに分裂し、小寺、浦上、別所、

山名、備前の宇喜多とのイザコザ争いが苛烈した感じですよね。

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ベストアンサーに選ばれた回答

ort********さん

2013/12/3100:16:39

人国記によると、『播磨は知恵はあるが、義理を知らない。親は子を謀り、子は親を出し抜き、主人は被官にできるだけ少ない領地を与えようとするが、そのくせ人材を掘り出そうという気分が強い。被官は被官で主人に奉公するのは第二で、自分の利益ばかりを考えている。要するにみな盗賊のふるまいなのである。』とかなり辛口に書いてありますが、言い方を変えれば、人の家臣になるのを由としない自立心の強い国柄だったのではないでしょうか。

質問した人からのコメント

2014/1/3 23:41:32

ややこしい国柄です。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

hak********さん

2013/12/3007:46:12

戦国期がどうだったか分かりませんが、「風土記」には播磨国は水源に乏しい土地で開墾しづらく、未開発の土地が多くあったとあります。
地図で見れば広くとも、農耕適地が少なく、強力な勢力が生まれにくかったのではないでしょうか。播磨が「針間」、すなわち平野が少ない地形から来ているという説もあるくらいですし……

1598年(慶長3年)の太閤検地だと播磨国は35万石となっていますが、これは新田開発が各地でなされたであろう豊臣政権末期の記録ですので、戦国初期はそんなになかったのではないかと……想像ですが。

ただ、農地・田地の少ない国を根拠としながらも成長した武田信玄もいますし、守護赤松氏に分家や国人を被官化させて戦国大名になるほどの器量を持った人物が、そして国内の諸勢力の中にも赤松氏を打倒するほどの者が出なかったというのが、結局は真相なのかもしれません。

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