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橘氏は名門とされていますが、藤原の天下になってしまった後は中流貴族として生き...

dyw********さん

2014/2/518:33:30

橘氏は名門とされていますが、藤原の天下になってしまった後は中流貴族として生き残るのでしょうか?

源平藤橘という言葉があります。
その中で橘氏がありますが、橘逸勢とかの名前は聞きますが、平安の初期から中盤ぐらいまででそのあとは名をなす人物は出てこなくなったのでしょうか?
藤原が朝廷で天下を取ると、明治まで歴史上抑えておかなければいけないような人物は輩出しなくなったのでしょうか?
藤原氏の中でも家柄で官位が決まったそうですが、橘氏の場合は大臣などもでてこなくなったのでしょうか?
せいぜい中納言ぐらいですか?
橘氏の場合も、女系などで藤原氏とも姻戚関係になったりしているのでしょうか。
そういう意味では、藤原にも橘氏の血が入っているのでしょうか?

補足藤原が貴族社会で頂点に立った後は、武家による政権はありましたが、
ずっと京都の貴族社会では藤原が頂点だったのですか?
藤原の中でも藤原北家の子孫たちでしょうか。
五摂家とか言うやつでしょうか。

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mom********さん

編集あり2014/2/817:36:54

平安時代の最盛期、藤原道長の時代にも、橘氏は中下流貴族として、その血統は続いています。貴族としての官位で言えば、一国の国司になれるくらいの家系だったようです。当時の橘氏で有名なのは、清少納言の夫になった橘則光くらいだと思います。

補足に関して
武家政権の中でも京都の貴族社会は続いていました。貴族社会には家柄によって序列があり、上から、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家に別れていました。その中でも、名家以上は、ほとんどが藤原北家の系統で占められていました。

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pin********さん

2014/2/609:57:53

「橘姓」のもとは「県犬養」で、子女を王族に入れて権力確保をと言う、バリバリの九州倭国系の豪族(官僚)です。
「県犬養三千代」と言う人物がいますが、彼女は最初に「九州倭国系の美奴王(三野王)との間に、葛城王(後に降臣して橘諸兄)、佐為王」を産んでいます。橘諸兄の子に橘奈良麻呂がいます
その後「藤原不比等と再婚し安宿媛(光明子)を誕生させ聖武に嫁がせています」。
「県犬養三千代」だけは「九州倭国系と天智ー藤原系」との二股がかかった女人で、奈良朝政治史での両者の暗闘のなかを、「壬申の乱」の再来を阻止しようとし荒波に翻弄された人物です。
彼女以外は、「聖武の妃の県犬養広刀自(父は県犬養唐)で、子には、井上内親王、不破内親王、安積親王がいましたが不幸な存在です」。
これらの県犬養(橘姓)の人たちは奈良朝政治史で、天皇の外戚として「天智―藤原系」に対抗して、最終的に敗れ去った氏族です。
ですから「壬申の乱で一旦途切れた、天智ー大友が復権した光仁(天智の孫)、桓武の時代が到来すると没落の一途だったのです」。
奈良朝政治史の初期の段階では、力関係で政略的な両者の婚姻もあったようで、「不比等と三千代の子の多比能と言う娘が橘諸兄と婚姻し橘奈良麻呂(橘奈良麻呂の乱)を産んでいます」。

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