ここから本文です

丹羽長秀は秀吉に着いたのは、山崎の戦いで明智を破ったからだけでしょうか?

uu7********さん

2014/2/1712:48:35

丹羽長秀は秀吉に着いたのは、山崎の戦いで明智を破ったからだけでしょうか?

詳しいことはわかりませんが、柴田寄りだったと思います。
清州会議でははっきり秀吉側になっていますが、如何思いでしょうか?
体調面で不安が出たとか他に理由があるのでしょうか?

閲覧数:
421
回答数:
3

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

sto********さん

編集あり2014/2/1720:29:38

賤ヶ岳の戦いで秀吉が美濃岐阜城を攻撃した時に、残された劣勢の羽柴軍が持ち堪えたのは佐和山城にあった丹羽長秀が独断で佐和山城を出立して琵琶湖を押し渡り援軍として駆けつけ、戦線を維持したからです。
勝家は武将としてでなく行政能力もあり、優れた人物なのですが我が強く同輩を軽んじるところがありました。
近江蒲生郡長光寺城に封じられた時に、同じく蒲生郡を与えられた中川重政の領内から勝手に兵を動員したり、安土村の水利争いにも介入するなど、諍いをおこしています。
隣りの佐和山城に封じられていた丹羽もこの勝家の行動は承知していたと思います。
もうひとつ例をあげれば、加賀切取し次第を命じられたのは柴田勝家ではなく、梁田広正という馬廻り衆から出世した人物がその任に抜擢されました。
勝家は面白くなかったのか、簗田の軍事行動に対して非協力的で信長も困惑したのでしょう。
簗田を更迭して改めて勝家に加賀切取次第を命じました。
この勝家の癖のある性格が長秀と合わなかった。(自分を持ち上げてくれる秀吉の方が組みやすいと考えていた)

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜2件/2件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

2014/2/1715:28:35

長秀は、頭のいい男でしょう。
自分を慕ってくる秀吉に、好意を持っていたと思います。
いくさも、まず、無難にこなしますが、安土城の総監督に、任じられたほど、人望、計画性があります。

トータルで、判断すると、秀吉でしょう。

下の人は、何を怒ってるんでしょうね。

kag********さん

2014/2/1712:57:50

何で詳しい事を知らないのに柴田寄りって分かるんだ。

織田家内で秀吉が親しかったのは主君信長を除いて、三位中将信忠、前田利家、丹羽長秀。

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる