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「薩摩人」はなぜ優秀なのですか???

yai********さん

2014/2/2315:46:48

「薩摩人」はなぜ優秀なのですか???

戦国時代には「九州」を席巻し「九州統一」間近と思えるまで
領土を大きくしています。
「朝鮮征伐」においても「明・朝鮮」から「鬼」と
呼ばれるほどの大変な「戦果」を挙げています。

また「幕末」にも大きく台頭し
「徳川幕府」を倒し「長州」などと「明治政府」を樹立しています。

また「日清日露戦争」でも多くの英雄を輩出し
海軍大臣「山本権兵衛」や
とくに「世界三大提督」ともうたわれる「東郷平八郎」など有名です。


なんだか「鉄砲」などが広まってから
「戦乱時期」に活躍し台頭するように見えます。
「勇猛」にも見えます。

なぜ「薩摩人」は優秀だったのでしょうか???
理由を教えてください。

補足「血」が優秀だったとか「北朝鮮のようだから強い」などの論は
ちょっと信用できません・・・。w
「朝鮮」とか侵出した歴史も無く強かったためしが無い様な・・・。

ただそこからくる「制度・教育」に何かあったといわれると
頷けますが・・・「制度・教育」などで
特筆や優れた面があるのでしょうか???

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pon********さん

2014/2/2500:42:45

有名な話に島津軍の軍規に「戦で敵兵を一人も殺せなかった者は死刑にする」というのがあり、
それが島津が戦で強かった理由だそうです。
ただ、それが秀吉との討伐軍との戦いでは裏目に出て
不利な状況でも「一人も敵兵を殺せなかったら死刑になってしまう」というので
多くの兵が撤退の命令を拒否して無理に戦い続けたためにかえって不利になってしまったそうです。

質問した人からのコメント

2014/3/1 20:06:20

ん~どうなんですかね~。

しかし勇猛な教育はしていたようですね!

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opa********さん

編集あり2014/2/2503:59:39

は?
肝心の現代のもしくは戦後の薩摩とか鹿児島県はどうですか?
パッとしないでしょ?
別に優秀でもなんでもありませんよ。

で、昔、彼らが優秀というかそこそこ活躍したのは
単に「野蛮だったから」です。
「野蛮な地域」ってのは戦争には強いんですよ。
戦前は東北など後進的な地域の兵が強いとされて
近畿などは「またも負けたか第八連帯」と言われる程弱かったです。
それと、維新~戦前にに優秀な軍人や政治家が出たのは単に「薩摩閥」「長州閥」と言われて
倒幕の立役者の長州と薩摩は大きな権力を持ち贔屓目に登用されたからです。

>「朝鮮征伐」においても「明・朝鮮」から「鬼」と呼ばれるほどの大変な「戦果」を挙げています。

ちなみに「八千で二十万の明軍を破った」とかは誇張で実際は五、六万くらいだったと考えられます。
あと中国、朝鮮では「鬼」の意味が日本とは違い「死霊、幽鬼」といったいわゆる死んだ人たちをあらわす言葉で
日本で使われるような「鬼のように強い」というような褒め言場の意味はなく、
さしづめ血も涙も無い「ゾンビ軍団」とでも言うべき罵り言場です。まあ「厄介だった」「強かった」という意味はあるでしょうけど。
ただ朝鮮人学者の書いた本では島津義弘が「無抵抗な村を盛んに襲撃して女子供も含む朝鮮住民を大量虐殺して鼻や耳を削いで戦果を大量に水増しして日本に送り、秀吉からの褒美と感状を期待した」とか酷いことが書いてあります。

それと敵中突破も世間で言われているようなものではなかった筈。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n86846

寂(錆)さん

2014/2/2319:00:37

鹿児島人です。
といっても徳川ファンだし、薩摩も好きは好きだけど詳しくはないので、知っている限りで答えます。

多分「臆病や軟弱をめちゃくちゃ不快に思う」ノリがあったからではないかと。
薩摩の優秀さは、基本的にその勇猛な性格と武力による功績が大です。
関ヶ原の戦いのときの敵中突破や薩英戦争の善戦、朝鮮侵略の時の奮闘というのは上記の特長による功績ですよね。
逆に明治では、大久保利通が暗殺されて以降は長州の後塵を拝んでしまいます。
本当かどうかは知らないけど、八公二民とかいうふざけるなとしか言いようがない年貢で政治を行っていたといいますし。
戦闘ではものすごく強いけど、政治になると若干弱い感じかと思います。
まぁ、江戸時代には幕府に接近したり、将軍の嫁さんだしたりしていますけど(逆に延暦治水事件でいいように利用された感じもあります)。
よって、薩摩の優秀さは勇猛、武力、戦略といった戦闘極振りステータスにあると思います。
もちろん個人的な感想ですが。

薩摩の戦闘に特化した特徴は、恐らく臆病や馬鹿にする思考から育ったものだと思います。
西南戦争直前には、西郷隆盛の部下が戦争に慎重な部下に対して「お前ら死ぬのが怖いのか?」といって、開戦を決意させたという話があります。
私は鹿児島育ちですけど、うっかり高所恐怖症なところを見せてしまったら笑いながら
「そんなヤッセンボーじゃだめだよ」
といわれました(ヤッセンボー=弱虫という意味)。
また怒鳴りあいの喧嘩になっても一歩も引かず飄々としている方なども見たことあるし、恐らく鹿児島では臆病や軟弱は今でも結構嫌われているんじゃないかなと思います。
他県よりも以上に。
そういうノリが今でもちょっとあるくらいだから、勇敢だったり強かったりしたのではないかと。

kam********さん

2014/2/2317:24:35

実は、鹿児島の島津の殿様は、鎌倉時代の一地方武家の家系などではなく、遥か日本古代史前半期に存在した天皇本家王朝の倭国=九州(筑紫)王朝の生き残りの子孫です。663年の白村江の戦いで唐帝国軍と激突して大敗北した日本軍とは九州王朝軍でした。
その白村江の戦いによって1世紀の「漢委奴国王・金印」から日本列島に君臨していた九州王朝は滅亡し、生き残りの九州王朝王族が南九州の「鹿児島=囲われた嶋=流罪地・移封地」に流罪され、九州王朝が滅亡したことによって分家だった畿内王家が新しい日本列島の中心権力・畿内大和王朝=日本国になったことで、鹿児島に流罪された旧九州王朝の生き残りは、“始末された家=島津家”にされたのです。さらに、新しい日本列島の中心権力になった畿内王朝にとっては、東国の関東が“吾が妻(アヅマ)=正妻”で、南九州に移封された旧本家は“薩摩(さつま)=小さい妻=メカケ”の地位に落ちろ、という処分でした。かつての本家・分家の関係が、まったく逆転したのです。

鹿児島の島津家は、滅亡した旧天皇本家王朝(九州筑紫王朝)の南九州へ嶋流しされた家系です。そのために、南九州に、九州北部にあった韓国岳や高千穂山を作ったりしてしまった。南九州の「都城」も、九州北部の太宰府(都府楼)を南九州に作ろうとした。
さらに島津家の家紋は「○に十」で、これは天皇(本)家の八紘一宇の国家理念です。また島津家は「蓬莱」という曲を持っていて、その中に「君が代」がありました。これも天皇本家だったからです。日本の古代王族楽器の「琵琶」の場所は北部九州の筑紫と南九州の鹿児島だけです。

南九州の先住・原住の薩摩隼人たちが優秀だったのではなく、その南九州に移封された旧九州筑紫王朝の旧天皇本家王族の生き残りたちが非常に優秀だったのです。

a_t********さん

2014/2/2317:12:17

薩摩人の優秀さは、後輩への面倒見の良さに起因するものと思います。

横綱:薩摩隼人、大関:肥後もっこす。
これは、明治時代の「男色」の旺盛さのランキングだったようですが、明治時代の東京では、薩摩人による美少年ハントが流行っていたそうです。
友情の強さ=躾・結束=優秀さに繋がっていったのかもしれません。芋蔓式に。
古今東西、セックスに勝る教育は無かったのでしょうね。

a_p********さん

編集あり2014/2/2703:03:30

鎌倉時代から領主が変わってないことが、相当大きいでしょうね。
約800年間支配者が変わってない地域、というのは世界史的にも珍しいのでは?w

「外城制度」といって、農村部に郷士(侍)を配置して外に備えるのと同時に、民衆支配も行っていました。「八公二民」8割年貢で搾取されても百姓一揆がほとんど起きない、起こせない体制だった訳です。
江戸時代は、キリシタンだけで無く浄土真宗の一派・一向宗も徹底的に弾圧しました。「自治」志向のある組織は、徹底的に潰していたんですね。旧薩摩藩の各地に、今でも「隠れ念仏」洞が残っています。
また、「日向送り」という刑罰があって、名称的には隣の日向国に追放される所払い的な感じですが、関所を出た途端に殺されていました。どんな小さな藩内の秘密(地理等)も、外に漏らさないようにしていたんですね。
今で言えば、北朝鮮みたいな感じでしょうか?w 常に臨戦態勢、「挙藩一致」体制だったんでしょうね。
当然階層間格差、階層内格差は激しく、唐芋(サツマイモ)が入ってくるまではシラス台地で米もあまり取れず、外に出ていくか大きな手柄を上げない限り、身分(生活環境)は変えられなかったでしょう。今でも「上昇」志向が強い地域のようです。

大政奉還後しばらくは、南北奉行所が江戸の治安維持を行い、その後上京した薩摩の元武士達が警官になったことは有名です。「オイコラ」警官は、薩摩武士の伝統?だったんですねw
つい最近も鹿児島のある警察署で、選挙違反の疑いをかけられた一般市民が、有力者の名前が書かれた紙を「踏み絵」させられて、「踏み絵事件」として有名になったりしてますw。島津家支配800年の間に染みついた権威権力意識、階層意識というのは、そう簡単にはなくならないんでしょうなw
江戸時代に薩摩藩の植民地支配を受けていた沖縄県人が、戦時中疎開する時に、旧薩摩藩地域を嫌い、遠い宮崎県や大分県に疎開したというのは有名です。その身分格差、差別は相当なものだったんでしょう。

「補足」
だから、「出世すること」が大きなモチベーションになりやすい地域、ということは言えるでしょうね。身分制度・階層意識でガッチガチだった訳ですから。今は歴史の教科書で教えないという「士農工商」の身分制度は、薩摩藩内のヒエラルキーだったのかもしれません。
「商人(町人)文化」は、江戸時代の各藩で見られる一般的なものですが、旧薩摩藩内ではほとんど見られないんですね。いたのは「御用商人」で、いかに島津家に近いかが、家柄の格を決めていたようです。
江戸~明治にかけての各藩の教育状況を調べた資料(「日本教育史資料」)を見ると、薩摩藩は他藩に較べて寺子屋の数が異常に少なかったことが判ります。「百姓」に教育を行う意思は、なかったんですね。「知らしむべからず、依らしむべし」そのまんまだったようです。
今でも、ちょっと理論的なこと(理屈臭いこと?w)を言うと、「こん人はギ(議)を言う」といって、からかわれたり怒られたりするようですw(理屈を言うな、口応えするなとかw、偉そうなことを言う立場か身の程を知れ的な?w)
だから、いわゆる「四民平等」の時代になった時、それまで抑圧されていた数百年間分?のエネルギーが一気に爆発した、と見ることが出来ると思います(特に下級武士層を中心に)。
明治時代、薩摩藩内の武士階層でも「革命」が起き、下級武士が藩政(県政)を牛耳っていきました。私学校の反乱(西南戦争)は、藩内の上級武士にとっても相当な脅威だったようですね。

全くの余談ですがw、鹿児島出身の人に聞いた話で、戦後ある時期まで「ニセグミ」(直訳:兄さん組、一種の年齢階梯制の組織)というものがあって、15歳になると一人前扱いされ、親から「もう大人なんだから、人に頼らず自分で判断しろ」と言われ、おおっぴらに焼酎が呑めたそうですw 。この「ニセグミ」の中で、地域のしきたり、その他諸々wを先輩達から教わり、隣の村のニセグミと出くわすと、お互い落ちている石を拾って投げつけあったとかw。礫(つぶて)、石合戦の伝統というかw、旧薩摩藩時代からの軍事教練の名残り?だったのかもw
田舎の公民館では、今でも昭和天皇が白馬に跨った「御真影」が祀ってある所もあり、どうもまだ「大日本帝国」が続いているような雰囲気もありますw
何を根拠にそんなに威張りくさるか?というぐらいw、爺さんが婆さんに威張っている家庭も多いですw
「額面通り、言葉通りだね、あの人(の言うこと)は」という県民同士の会話も、チョコチョコ耳に入ってきたりしますw 日常的に、そんなに持って回った言い方が普通なのか?、よく解りませんw。 やっぱり、「800年支配」の祟りが、今でもあるのでしょうか?w
私には、やっぱり不思議な国です、薩摩ってw

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