ここから本文です

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12122494617 のア...

om_********さん

2014/3/1513:03:40

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212249461...

のアーナパーナの話の続きです。

まず、第一にプッタタート比丘のアーナパーナの理解は、別に通説ではないと思います。

(反対しているわけではありません。プッタタート比丘のアーナパーナ理解の明晰さは有名だということも存じ上げています。)

次に、プッタタート比丘の説明は別に僕の説明と矛盾はしていないと思います。

アーナパーナはサマタ瞑想としての側面と、四念処によるヴィパッサナーとしての側面を持っているということであって、ただそれを明確に段階として説いたのがプッタタート比丘の工夫だと理解しています。

問題は、それを日常生活の中でできるか、だと思います。

プッタタート比丘の説明を読んでも、どう解釈しても座り瞑想として解説されていますし、アーナパーナサティ・スッタに於いても、釈尊は、どう考えても座り瞑想として説明されていると思われます。

アーナパーナでは、基本的に呼吸以外の感覚をできるだけ遮断して、呼吸を微細に観察するというのが粗筋だと思います。

日常生活で行うとすれば、それは単に意識的に深呼吸する、ということでありアーナパーナサティとは呼べないと思うのです。

この質問は、iti********さんに回答をリクエストしました。

閲覧数:
253
回答数:
1

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

iti********さん

リクエストマッチ

2014/3/1517:43:45

プッタタート比丘のアーナパーナの理解は、通説ではありません。通説よりはるかに上です。大多数に支持されている説は凡庸な人に支持される説であり、最高のものではありません。

「有名だ」ということをご存じなのですか。

アーナーパーナサティ経は、初心者に説いているので、サマタの段階から、つまり座る形で説いていますが、アーナーパーナサティは、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1112224058...の解答をご覧いただくと、ブッダがアーナーパーナサティをすることの功徳で、「聖住、梵住、如来住にふさわしい」とか「すべての悪を駆除できる」言われていることを熟慮すると、座ってする瞑想でないことが分かります。座っている時だけでは、「○○住」とは言えないし、立っている時に生じる悪は防げないからです。

プッタタート比丘の説明も同じで、一般の人に説く時は、基本を解説していますが、上記と同じことをおっしゃっています。

あなたがお好きなアーチャンチャーも、プッタタート比丘が紹介したアーナーパーナサティの影響を受けられていますよ。チャー和尚の弟子であるランチュアンという人の話をご紹介します。
『心を呼吸に縛りつけて監視させる方法は、とても便利だということが分かりましたか。なぜ便利かというと、何処にいても、何をしていても、どんな時にも呼吸をしています。だから呼吸をしているかぎり精神修養はできるのです。言い訳はできません。チャー和尚は呼吸法による精神修養を説いておられて、在家の弟子たちがよく、家に帰ると忙しくて修行する暇がありませんと言うと、「で、息をする暇はあるの」と聞いておられました。

もちろん、息をする暇はありますと答えるしかありません。息をする暇があるかぎり精神修養する暇がないと言い訳をすることはできません。これはいいと思いました。呼吸法を使うのは、修行を怠けるための、自分自身への言い訳がないからです。いつでも、どこでも実践できます』。
ここで精神修養と言われているのは、実践や修行のことです。(私見ではなく、原書を読んだことがあります。)

日本で出ているチャー和尚の本には、名前は知りませんが、西洋人の瞑想家の瞑想法が、アーチャンチャーの手法と紛らわしい形で詳細に説明されていると聞いたことがあります。「呼吸をしている間は瞑想、あるいはサマーディができる」というチャー和尚の手法は、他の多数の高弟の方の本で読んで確認しています。

アーナーパーナサティを16段階に分ける規定は、ブッダの規定です。「自説か」と疑われるのは結構です。疑問は真実を知るきっかけになります。しかし言葉にする前に、アーナーパーナサティ経や、解説をお調べになって、さっと読むだけでなく、二三度読んで、それから少なくとも数日熟慮してから、それでも疑問だったら言葉になさってください。

四聖諦を実践する人、あるいはブッダに帰依している人が、ブッダの教えに関して、「自分が考えた説」自説を述べることはありません。プッタタート比丘など洞察する智慧のある人弟子は、ブッダが「自分で見えることを言いなさい」と言われているように、ブッダの言葉でなく自分で見えることを言いますが、当然ブッダが言われている原則と一致します。洞察する智慧のある人が心の目で見える真実は、それ以上に確かなことはないから、ブッダはそういわれています。


自分の理解と他人の言うことが一致しない時、自分の理論や理解がすべて正しいと思わないようアドバイスさせていただきます。まだいろんな宗派の高僧や研究者にご興味があり、ブッダの教えだけに帰依していない(疑法がある)段階では、当然正しい教えを選択(択法)していないからです。自分の考えへの執着をお捨てになれば、順により高い新しい真実を掴むことができ、間もなく最高の真実、ブッダが説かれた真実を理解できます。

質問した人からのコメント

2014/3/15 17:58:09

ブッダが言われているのはヴィパッサナーの功徳であり、アーナパーナの姿勢に関する説明ではありません。プッタタート比丘のアーナパーナ理解に関する評価はウィキペディアにあります。次の質問が必要なような気がします。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる