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イギリスは、産業革命以降、紡績機などの機械自体は輸出しなかったのでしょうか? ...

huj********さん

2014/3/2421:35:20

イギリスは、産業革命以降、紡績機などの機械自体は輸出しなかったのでしょうか?

綿が例えばインドや中国でガンガン現地生産された…という話は聞いたことがありません 。

ということはイギリスは綿を輸出しただけで、製造は国内で独占していたのでしょうか?

それとも機械も含めて輸出するのはあまりにも当然のことで、どこにも記述されていないだけでしょうか?(^_^;)

しかし中国で製綿業が発展すれば、中国の経済力、国力はもっと早い時期にかなり強くなったんじゃないか?と思うのですが…

補足やはりそうですか!機械を安易に輸出してしまえば、イギリスの利益は減ってしまうという計算がなされたのでしょうか?

それとも単に保護貿易的な、政治的な事情ですかね?

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coo********さん

編集あり2014/3/2423:15:30

>産業機器と職人の海外移住は1825年まで禁輸措置が取られていました
>以降は禁輸が解かれ欧州を中心に産業革命が拡がる訳ですが
不正確です。
1843年に機械類輸出禁止は解かれたのです。それゆえに、 関税当局の統計によると,「機械類」(machinery and mill-work)の輸出額は,1831年10万ポンド(価額),1837年50万ポンド,1840年代後半でも100万ポンドを大幅に下回っている。


産業革命初期の1774年に始まった”職人の海外移住の禁止”と”機械の輸出禁止”は1820年代以降、ハスキソンの”自由主義改革”によりやはり1824-25年当時議会で問題となり[職人と機械に関する特別委員会]がもたれた。これを職人の海外移住と機械輸出緩和の動きであるとみなしたマンチェスター、バーミンガム、リバプール等々の製造業者たちが反対運動を起こし、マンチェスターも強硬な反対の立場を明らかにした。
このような動きの結果委員会は職人の移住に関しては廃止を勧告したが機械輸出に関しては”継続調査”に留まった。
1827年2月の年次総会でマンチェスターが穀物の自由化を述べる他方で機械の輸出を主張するのは利己的行為であるとする主張に対し”我々自身の私的利益を促進するためでなくこの国の一般的福祉の増進の為に行っている”と強弁した。
これらの動きに対し1830年代半ばの不況に対してマンチェスターの機械製造業者から輸出禁止に対して不満の動きも強まりその様な中、紆余曲折を経て1843年に至って税関関係法改正法により機械輸出が完全に自由化された。

引用・・・J. H. クラパム『近代イギリス経済史 第1巻 第2編 初期鉄道時代,1820−1850 年』
(機械の輸出)
関税当局の統計によると,「機械類」(machinery and mill-work)の輸出額は,1831年10万ポンド(価額),1837年50万ポンド,1840年代後半でも100万ポンドを大幅に下回っている。しかし,この数値は少なくとも1843年までは当てにならない。なぜなら,この分野では,ブリテン最後の輸出禁止法が残存していたからである。しかし禁止品目を設定しても,実際には禁止品目についてすら当局が輸出を認可することがあったので,法運用はきわめて恣意的で矛盾に満ちていた。たとえば麻くずを梳いたり紡いだりする機械は輸出が認可されるのに,その機械が亜麻・羊毛・絹加工のために用いられる可能性があると判断された場合は禁止対象になるというような調子であった。紡績・織布機械を除けば,ほぼ全ての品目の輸出が認可されていたものの,法の回避,密輸,法制定後に新たに登場した品目の適用除外など,法の管理は混乱を極め,1841年には輸出認可を申請する者は殆ど居なくなっていた。(関税当局の数値が当てにならない所以である。)現物の輸出以上にイギリスへの打撃が大きいはずの機械模型や設計図の輸出も,全く自由だった。結局,矛盾に満ちた法の運用はますます困難となり,1843年に機械類輸出禁止は解かれた。

>単に保護貿易的な、政治的な事情ですかね?
各産業の利害対立です。利害に根ざしていることから、当然さまざまな紆余曲折をへて、自由貿易派が優勢となり、廃止へとつながったわけです。この問題については、Corn Laws(穀物条例)を見れば顕著にわかります。
引用・・・http://note.masm.jp/%B9%F2%CA%AA%CB%A1/
穀物、とくに小麦の輸出入に一定の制限を加えた法律。イギリスで14世紀以来しばしば制定された。当初は輸出に制限を加えることにより消費者への保護を図ろうとしたものであったが、1660年からは輸入に対して関税がかけられるようになり、生産者の保護に力点が置かれるようになった。とくにナポレオン戦争後の1815年には穀価が一定価格に達しない場合(小麦の場合は一クォーター当り80シリング)には穀物の輸入を禁止する法律が制定された。この法律は、当時の穀価の下落、輸入穀物の増加という状況のなかで地主・農業経営者の支持を受けて制定されたものであったが、生産品の輸出、原料の安価な購入と穀価および労賃の低額安定を望む商工業者はこの法律に強い不満を示すことになった。それぞれの利害を代表するマルサスとリカードとの間に論争がなされた(穀物法論争)のをはじめとして、地主・農業経営者と商工業者との間でこの法律の存廃をめぐって激しい対立が生じ、以後のイギリス社会の一つの問題点となった。その後1828年の改定で、穀価の変動によって関税を増減するという制度の導入も試みられたが、これはかえって投機をあおり、穀価を不安定なものとしたため、穀物法への反対を強めることになった。こうしたなかで自由貿易を主張する商工業者が反穀物法同盟を結成し根強い反対運動を続けたため、結局穀物法は1842年の改定を経て、46年の議会においてその廃止が決定された。この決定はイギリスの自由貿易政策への一つの転機をなすものであったとされている。

質問した人からのコメント

2014/3/31 17:18:41

降参 圧巻の回答でビックリしました(@_@)大変勉強になりました!詳しく教えていただき、ありがとうございました!

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中道彦三さん

編集あり2014/3/3014:49:48

あのねー。世の中、図々しい人間達だけで出来てるのよ。

この一言で、全てが解るでしょう?

*
最初は禁止したけど、後に許可したと聞いたな。許可した方が儲かったからでしょう。

2014/3/2421:55:45

産業機器と職人の海外移住は1825年まで禁輸措置が取られていました
以降は禁輸が解かれ欧州を中心に産業革命が拡がる訳ですが

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