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「城兵・助命・切腹」の歴史を教えてくだされ!!【毛利家?】

yai********さん

2014/6/716:53:00

「城兵・助命・切腹」の歴史を教えてくだされ!!【毛利家?】

戦国時代の「織田VS毛利」における「別所・吉川・清水」といった
武将たちが立て続けに「城兵の助命と引き換えに切腹」といった
行為を行っています。

これにより「毛利家」は負けながらも「結束力」を強めていき
他のお家で見られる「家臣・国人衆」の大規模離反などの
「大崩」が起きていないように見受けます。

つきまして、この「城兵助命切腹」なんですが
これ以前にこういった事象はありましたでしょうか?

またこういった行為がなぜ「毛利家」では
多々、行われたのでしょうか?

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bir********さん

2014/6/1006:51:42

鏡山城の蔵田房信が切腹したのは、だまし討ち、でした。
毛利元就の調略で蔵田は尼子に寝返ったが、城を引き渡して
尼子経久に目通り、かなった蔵田に待っていたのは
切腹の命令でした。尼子経久は寵臣の亀井を通じて
鏡山城の籠城した一派一族を虐殺せよと毛利に命じた。
これには毛利元就を はじめ安芸の諸部将が団結して
反対したので回避できました。このように、
尼子は毛利元就を さんざん、つかいまわして羽目て
討つ心算だったのでしょう。それも、合戦ならば、
致し方ないが、毛利元就が後見役を した、
毛利家の当主つまり元就の兄の幼い息子が急病死した、
とたん、に毛利家では後継あらそい、が発生。
尼子は、毛利家は尼子の一族から養子を出して毛利家を
継承しようと強圧的な申し出で、これが果たせば
毛利家は尼子に合併吸収。そこで裏ワザというか、
毛利家で、足利幕府にワイロを多くやって、
幕府に「毛利家は毛利元就が後継すべき。」と
言わしめ足利幕府の内書が発給。
田舎の安芸の地頭に過ぎない毛利家の後継問題など
足利幕府の関知するところじゃないが幕府の御墨付き書に
、流石の尼子も反発できず毛利家は毛利元就が当主に。
しかし今度は、元就とは母ちがい の庶子の弟の
相合元綱が尼子経久の寵臣・亀井に、そそのかされて
毛利元就に謀反を企てるが、元就は事前に察知して
軍勢急襲で元綱を討った。弟を討たねばならない
羽目を かもしだした尼子を毛利元就は、以後、
臣下を辞めて敵対し続けたのは当然でしょう。

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川崎さん

編集あり2014/6/719:11:06

1523年の尼子VS大内による鏡山城の戦いで、城兵と妻子の助命を条件に自害した蔵田房信がいますね。
なお、大内方の毛利元就が蔵田を説得しています。

1569年に、居城にこもって戦うものの、兵の助命を条件に切腹すると申し入れて降伏した『安芸国虎』はどうでしょう。

1573年に徳川家臣の野田城主・菅沼定盈は自分の切腹を条件に城兵の助命を要求、開城に至っています。
結局、信玄は全員を助命しましたが。

毛利家に多く見られる理由は、わかりません。武田VS徳川でも見られますし。
しかし鏡山城の戦いから、尼子や大内時代にもみられますが、元就も噛んでいます。
そのあたりが関係有るかもしれませんね。
もうちょっと調べてみます。

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