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大正天皇のお子様たち 秩父宮殿下 旧会津藩主松平容保の六男で松平恒雄の長女 高...

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ID非公開さん

2014/7/2505:38:01

大正天皇のお子様たち
秩父宮殿下 旧会津藩主松平容保の六男で松平恒雄の長女
高松宮殿下 徳川慶喜の孫娘

朝敵だった方からの妻をもらったのは意図的でしょうか?

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tes********さん

2014/7/2700:02:34

昭和天皇には、その存在を高らしめる為にも、五摂家ではなく皇族から妃を選ぶように元老から望まれていました。
そのせいもあって、貞明皇太后は皇次子の結婚相手は自らお決めになりました。

皇太后はご自分と同じ日に生まれた秩父宮に特別な縁を感じており、御用掛で特に信頼している松平信子の令嬢を秩父宮妃に所望しました。
松平節子姫は奇しくも皇太后と同じ名前であり、秩父宮とは七歳差で年齢の釣り合いも良く、皇太后が参内させて面接したところ大層お気に召したようです。
皇太后は四人の親王妃の中で、勢津子妃が一番のお気に入りでした。

松平信子は鍋島侯爵家の出身で佐賀藩主鍋島閑叟の孫、姉は梨本宮守正王の妃になり、夫は松平容保の六男で平民の身分でしたが、母親が外交官との結婚を望んだため松平恒雄氏に嫁いでいます。
信子は貞明皇太后の信任篤く宮中で絶大な権力を持っており、後年には皇后女官長保科武子、東宮女官長牧野純子と共に、美智子皇太子妃(当時)に耐えがたい苦難を強いたのです。



高松宮妃は大正天皇がお決めになりました。

大正天皇は有栖川宮威仁親王の薨去に先立ち、大正2年に特旨をもち第三皇子宣仁親王に高松宮を授け、有栖川宮家の祭祀を継承させました。
それと同時に、有栖川宮威仁親王の孫で、徳川慶喜の孫でもある、当時二歳の徳川喜久子姫が将来高松宮妃になる事に決定しました。

喜久子姫の母は有栖川宮威仁親王の次女ですが、他の子女は早世した為唯一のお血筋です。
威仁親王の異母兄である熾仁親王は東征大総督で、皇女和宮と破談の後、徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子と結婚しています。
熾仁親王が嗣子なく薨去し、威仁親王が有栖川宮を相続しましたが、嗣子栽仁王が早世したので有栖川宮家は断絶しています。

有栖川宮家と水戸徳川家は度重なる縁組をしています。
以下の二家の系図をご覧ください。

昭和天皇には、その存在を高らしめる為にも、五摂家ではなく皇族から妃を選ぶように元老から望まれていました。...

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rio********さん

2014/7/2623:04:10

はいその通りです。
以前高松宮妃喜久子様の著書『菊と葵のものがたり』を読んだのですが、
そのことについて書いてありました。
朝敵との和解のための結婚のようです。

しかし、兄弟いずれも美男美女カップルだなあと思います。
これから先の代にもこういう感じのお妃が現れてほしいです。

2014/7/2507:18:54

もちろん意図的です。

少なくとも、この時代に皇室の方々の恋愛結婚というのは考えられません。
政府首脳が結婚の政治的効果・戦略的効果を考えて相手を選びました。

明治政府が発足した頃は、「この政権は建武の新政と同様で、短期政権に終わるのではないか」と見られていました。
政府も当然反体制派や旧幕臣の動きには非常に神経質でした。

しかし、憲法発布、国会開設、日清・日露の戦勝を経て、明治時代の終わりごろには政府も自信を持ち、むしろ挙国的体制をとるために、旧佐幕勢力の取り込みに熱心でした。
明治天皇が慶喜を皇居に招待するなどの一連の融和策の延長にこれらの結婚があります。

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