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真田幸村は豊臣家のために闘って死んだの?

マサさん

2014/8/411:14:24

真田幸村は豊臣家のために闘って死んだの?

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ok2********さん

2014/8/417:37:26

私は豊臣の為に戦ったのだと思います。
関ヶ原の戦いの前に、父と幸村は豊臣方に就くと決めてからは、敗れた時の覚悟は出来ていたと思います。
九度山での軟禁生活では、寒さや貧困生活に苦しんでいたようで、兄に色々なものを送ってもらいぎりぎりの生活をしていました。
そして、父昌幸が死んだ後に、豊臣方から莫大な資金の譲与と共に大坂城への集結の依頼が来ました。
このときに、幸村は自分の死に場所を決めたと思います。勝ち目の無い豊臣方に就いて義理を果たし、軍資金によって真田軍の赤い甲冑を揃え、家康と交戦して華々しく散ることを。
豊臣の為に戦うことで、真田の名を上げ、幸村の名を残すことを一番に考えたのでしょうね。

質問した人からのコメント

2014/8/11 00:29:22

成功 徳川家康打倒に人生をかけた武人

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わをんさん

2014/8/411:16:07

自分の力を示して、家の存続を賭けていた。
単に豊臣家のためだけに闘っていたわけではない。

川崎さん

2014/8/411:48:13

本人に聞かなければわからない問題ですが、活動内容から推測してみます。

死の直前に、息子の大助に秀頼の元に戻るように諭しています。この事は、大助のみならず秀頼を気遣う描写とも捉えられます。

家康や叔父からの勧誘を断っています。家を存続させるだけなら、これに乗ってしまえば良いだけなので、自分の子孫に何か残そうと言うわけではないと思います。下手をすれば息子や娘、妻なども全員処刑ですから。

あとは意地などの精神的な問題です。
幸村は冬の陣のあとに友人と酒宴をしたとき、鎧を見せて『これを着た死体があれば自分だ』と言い、覚悟のほどを示します。つまり、自分が死んだ後の事を考えており、華々しく散ってやろうとの意思が見えます。

と言うわけで、豊臣秀頼の事も考えていましたが、自分の名誉や意地のために戦っていたと推察されます。

aud********さん

2014/8/412:48:14

関ヶ原では徳川に勝ちながら三成が負けたので紀州に流されます、この恨みはかなりきついものだと想像できます、大阪の陣がはじまるまえに家康からの誘いには乗らずに頑固にも大阪方につきますが、やはり父の昌幸の夢でもあるこの大阪城に立てこもり徳川と一戦やってみたいという強烈なまでの意志の強さが存在していると考察されますね。もし家の存続を思っているなら兄もすでに徳川方なのですんなり再就職できるはずです、それをあえてしなかったのは明らかに徳川と戦いたいということです。
豊臣のためではなく戦国時代に生きた男の証でしょう。

jdg********さん

2014/8/619:51:38

厳密には豊臣家の為には戦っていません。
自らの為に戦ったのです。

普通に考えれば、「真田家の名を後世へ残す為」と、
「武士として最高の死に花を咲かせたいという欲望」です。

彼が豊臣家の忠臣として豊臣家の為に全てを捧げたというのは、
所謂、後世の講談による影響が大きいです。

行動理由が豊臣家への義や忠臣ではなく、
あくまでも自らと自らの家の為であったとしても、
彼の置かれた状況や心情を考えれば、それは当然の思想行動であり、
別に非難されるものではありません。

大坂の陣での当時の彼の目的は、
「歴史に残る大戦で戦果又は武勇を挙げて、そこで死ぬこと」
が、最大目標です。

彼は、武士として、彼が目指した目標をやり遂げたと言えます。

sir********さん

2014/8/700:33:53

違うと思いますよ

そもそも幸村が豊臣のために戦う義理なんて一片もありませんし
ただ最後に一花咲かせようとしただけでしょう

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