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藤原宮子について 奈良時代に詳しい方、宮子は三十数年も精神を患っていたのに...

kor********さん

2014/9/919:31:23

藤原宮子について

奈良時代に詳しい方、宮子は三十数年も精神を患っていたのに、どうして僧正玄ぼうに会った途端に治ったんだと思いますか?

補足回答ありがとうございます!
正確にはわからないんですよね。でも、みなさんはどう考えますか?

いろいろと考えてみると面白いので、皆さんはどう考えるのかなぁと思いました!

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ベストアンサーに選ばれた回答

斎藤豊さん

2014/9/920:08:45

宮子が何故息子に合わなかったのか、正確には謎です。玄ぼうはその秘密を知っていたのでしょう。

  • 斎藤豊さん

    2014/9/921:32:39

    宮子が解離性同一障害だったとして、それを玄ぼうが治したのかもしれません。あるいは宮子が身分が低いので、誰かが合わせなかったのかもしれません。宮子は海女だったと言う根強い説があります。海女の話す事は宮中と違ったので、玄ぼうが宮中の言葉を教えたのかもしれません。

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質問した人からのコメント

2014/9/16 18:42:11

みなさん回答ありがとうございました!
お陰でいろんな見方を知れました。

どっちにしても、宮子の生きた時代は水面下で激しい政争のある時代でしたね。もし海女だったとしたら……、不比等に突然都に連れてこられて、陰湿な政治の裏側を見せられて、耐えられないのも仕方ないと思いました。

玄ぼうには、宮子と密通したという話もあるみたいです。

本当のところはわかりませんが、宮子は政争の被害者という感じがします。。

ベストアンサー以外の回答

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pin********さん

2014/9/1218:20:12

正確には解からないのですが、「色々と考えると面白いので書いてみます」。
「日本書紀、続日本紀」は最終的に「天智―藤原系」の史書で、彼らに先在先行していた「九州倭国」と言う存在を隠蔽しています。
「日本書紀、続日本紀」は、「壬申の乱で一旦途切れた天智―大友の血統を、光仁(天智の孫)、桓武に断絶なく継続しているとするために、ドンでもない策を施しています」。
実際の九州倭国系の皇統は、「九州倭国王筑紫君薩野馬ー高市皇子―弓削皇子―文武ー元明-元正ー聖武―孝謙―淡路廃帝―称徳」で断絶しています。
「文武の出自」ですが「日本書紀、続日本紀」は、「天武(大海人皇子)と持統(鸕野皇女)の子である草壁と阿閇の子が文武」だといっていますが、これは嘘です。
「文武は高市皇子と阿閇(阿部御主人の娘)」との子供です。
この「文武(高市の子)」の所に「天智―藤原系」は政略婚姻として、「藤原宮子」を入れたのは確かで、「首皇子」が誕生したのも確かです。
でも誕生直後から「首皇子」を養育したのは、「九州倭国系」で、「藤原宮子」は「首皇子」を取り上げられた状況で、藤原系の住居に居て面会不能です。
「藤原宮子」の「心的障害」と言うのは、「所謂、産後の肥立ちが悪く、併せて赤ん坊との面会不能が原因です」。
「首皇子」の「養母」は、「高市と阿閇の子である、文武の姉、氷高皇女(後の元正)」だと考えられています。
早い話、「文武が早死だったために、首皇子の争奪合戦に九州倭国サイドが勝利したための結果です」。
「日本書紀、続日本紀」の系譜から行くと、「天武(大海人)と持統(天智の娘)との子、草壁と阿閇皇女(天智の娘)との子が文武であれば、文武と宮子の子の養育は、間違いなく天智サイドで行われたはずです」。
藤原不比等の死亡直後で影響力が半減したとしても、「首皇子の皇太子就任後の、教育係り16名の人名を見ると、筆頭が佐為王(橘佐為)で、父が九州太宰帥の美努王で兄橘諸兄は後に聖武の娘孝謙を支える左大臣です」。
以上のように、「藤原宮子」は、偉大な「聖武」の実母なのですが、「九州倭国系」と「天智―藤原系」との奈良朝政治史の暗闘の狭間で生きた女性なのです。
彼女が、「心的障害から平癒するのは、玄昉の治療もあるのでしょうが、藤原四兄弟の天然痘による死去と、孫の阿部内親王(後の孝謙称徳)の皇太子就任の前後の事で、一気に肩の荷が下りたためではないでしょうか」。
「名前は、藤原宮子ですが、聖武が即位すると、暗闘に関係なく、実母に付き聖武により大事に扱われていて70歳前後まで生き、母宮子の死亡を見届け、聖武も翌年に生涯を閉じています。

jij********さん

2014/9/1000:19:51

色々と宮子に関しては説があります。
精神を患っていたわけではなく隔離されていた
とか。
玄昉が親子の再会に一役かったことは確か。

shi********さん

2014/9/922:46:09

どうなんでしょうね。
これはサッパリわからないと思いますよ。

ただ、一つの可能性としてですよね。
たとえば飛鳥時代。壬申の乱を経て強大な権力を手中にする王権。具体的には天武天皇ですね。
彼は、古代最大の内乱とされる、壬申の乱に勝利。ここに充実した大王権威を勝ち取る。

そして彼は、様々な政治改革あるいは制度改革に邁進するのですが、こと医療においても特筆すべき足跡を残しますね。
天武天皇4年(675年)に、外薬寮を設置します。
そこを起点として、およそ7世紀末には、様々な医療制度の充実に、王権は走り出します。

そしてこれは後の律令制国家の中で「典薬寮」とし、力強い歩みをはじめます。
医官の補任をあおぎ、今日の厚生労働省と大学病院の性格を併せ持つような官司の誕生ですね。
さらには、いわゆる内廷ですね。天皇のためだけに中務省の内薬司もおかれ、職員定数61人で事にあたっていたようなんですが、やはり無駄だったのでしょう。
寛平8年(896年)には、官司統廃合の波にのまれ、その姿を一部、典薬寮に移し、その歴史に幕を閉じます。

そろそろ回答して行きたいと思うのですが。
ようは王権の充実期。そして律令制の整備などにより、宮廷にも、そして都の市などにも、薬草が見られるようになる。これが奈良時代におきてくるんですね。
理由はむろん、奈良時代の朝廷は、一部で薬草園を始めるとともに、そこでは賄いきれない薬草についても、諸国に命じて貢進させていましたから。

そうした中で、典薬寮に集められた薬草は、別途、内薬司の手により、天皇あるいは皇后に進められていたのですが…
後に統廃合されるような内薬司です。典薬寮の持つ薬に依存していることもあり、手続きも煩雑で、上手に天皇や皇后に薬が行きわたらなかった。
だから、寛平8年には「無駄」とされてしまう。

そうした中で、病に苦しむ宮子は、適切な薬草もなく、内薬司もあてにならない状況もあった。
そこで、玄昉の登場ですね。
唐から帰った彼は、当時の先端医療もたずさえ、なおかつ、モタモタと薬を持ってこない内薬司をしり目に、都の市などで見る薬草類を調合。服用させ、治療に成功した。

こんな想像も、面白いと思いますよ。
むろん、これは僕の推論。それ以上でも以下でもありません。

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