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現代短歌は直戴に歌ってはいけないのですか?歌えないのですか?それは何故ですか?

pyj********さん

2014/9/1911:55:47

現代短歌は直戴に歌ってはいけないのですか?歌えないのですか?それは何故ですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

mal********さん

2014/9/1915:38:43

現代短歌とはいつからの事を言うのか、と言う点を考慮しなければなりませんが、大まかに「戦前の新風十人から」、「戦後すぐより」、「塚本邦雄の水葬物語以降」と三説あります。ここでは詳しい検討は避けます。「直戴に歌う」とは対象物をありのまま歌うと言う事ですね。写生とか写実主義という事ですね。仮に現代の全ての短歌を現代短歌とすると、現実主義が多いです。と言うかそうならないと中々歌ができないので。然し、歌人や結社、流派によっては幻想的な歌風があります。塚本邦雄が最有力で、後、葛原妙子や山中智恵子、寺山修司らは非写実派、正式な定義ではないですが幻想派と言うこともできましょう。比喩なども直喩と暗喩がありますが、どちらかと言うと中間的な歌人が多いです。私もそうです。あまり線引きをしない考えです。塚本の流れをくむ人やお弟子さんは圧倒的に「幻想派」で、新古今和歌集の歌風をも標榜しています。方法論から徹底しているのですね。ですから現代の短歌では写実主義、現実主義もあれば幻想主義も、その中間派もあると言うことです。

質問した人からのコメント

2014/9/19 18:31:45

不備のある質問にも関わらず、丁寧にご教授くださりありがとうございました。直截な歌いぶりではいけないのか、古語を使ってはならないのか、などいろいろ悩みはあるのですが、流派によっても異なるのですね。いろいろ勉強してみたいと思います。ありがとうございました。

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aom********さん

2014/9/1916:08:57

歌っては「いけない」ってことも、「歌えない」ってこともないけれども、
直截に歌った歌というのは、往々にして深みや奥行きがないので、
歌としての味わいに欠け、浅薄な印象を与える(ことが多い)よ、
ということでしょう。


直截に、と仰る意味が、
「嬉しい」とか「悲しい」とかの、感情を表わす言葉をもろに使う、
という意味であれば、
特に俳句の世界では、そういう感情語に費やす音数を惜しんで、
そうした感情をもよおしたことを17音のうちで言外に伝えるような句が良いとされるわけですが、
「夏河を越すうれしさよ手に草履(蕪村)」
「匙舐めて童たのしも夏氷(誓子)」
「白鳥は悲しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(牧水)」
など、感情語をもろに使っていても、
人の心を打つとして高く評価されている句や歌は、いくらでもあります。
「我はもや安見子得たり皆人の得かてにすとふ安見子得たり(藤原鎌足)」
などは、直截な詠みぶりで有無を言わさず感動を与える歌の代表といってもいいでしょう。

一方、「鹿の音を聞くに我さへ泣かれぬる谷の庵は住み憂かりけり」
と詠んだ静縁法師が、鴨長明に、
「泣かれぬる」の句が「あまりこけ過ぎ(=浅薄すぎ)」る、
と批判されて怒って帰り、
後日、俊恵の意見を拝聴したところ、俊恵にも「こけ歌」と謗られ、
「まさなの心得や」とまでこっぴどく怒られた、という話も、
「無名抄」に残されています。
持統天皇の御製「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香久山」や、
山部赤人の「田子の浦ゆうち出て見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」が、
「小倉百人一首」では、「夏来にけらし」「衣干すてふ」、
「田子の浦に」「白妙の」「降りつつ」で編集されている例などは、
中世人の美意識が、万葉歌人の「直截」な感性を退け、
婉曲、深遠なものを重んじる同時代人の共感を得られるように、
という意図による改作の代表的な例といえましょう。


和歌の流れをくむ短歌や俳句の世界では、
幽玄を提唱した俊成や、
有心を理想とし余情を重んじた定家の影響があまりにも大きかったために、
直截なるものを良しとせず、
婉曲、深遠にして奥行きの深さを感じさせる歌が高級とされる風潮が、
いまだに残っているのだと思います。

しかし、江戸時代に、いったん、こうした中世独特の美意識は、
国学者たちによって似非美意識と批判され、
「真心」を良しとし、
素朴にして直截な感情の表出にこそ本来の日本人の感受性がある、
と強く訴えられた経緯もありますから、
一概にどちらがいいとか悪いとかいう問題ではなく、
その時代の風潮に合い、同時代人の共感を得やすく、独りよがりに陥らず、
普遍的な価値を評価されるような歌を、
一般に「良い歌」という、ということでしょう。

してみると、現代のような、わかりやすさ偏重の、
エンタテインメント文化が諸手を挙げて万人に受け入れられる時代において、
「直截な表現」による歌は、時代の要請にかなっているともいえると思います。


風国が「夕暮れに晩鐘が寂しくない」という内容の句をつくって、
去来がこれを難じ、
風国は、「だって、事実、寂しくないと思ったんだもの!
本当にそう感じても、感じたとおりにつくっちゃいけないんですか」と聞き返して、
去来が「それなら、夕暮れは寂しかったけど鐘の音が力強く聞こえてきてなんだか元気が出たみたい、というような句にしたら?」と添削した、
という話が、「去来抄」にあります。
去来は、「一己の私(自分一人だけの個人的な感情)」に陥った句は多くの人の共感を得にくい、という根拠で、
「ちゃんと実感を伴っているのに!」という風国の反論を退けたうえで、
「秀句とは言えないけれども、
まあ、実感も、人々の共感も重んじ、という折衷案としてはこうかなあ」
と、風国の句案を最大限に生かした作句例を挙げてやっています。

西行の有名な「願わくは花の下にて春死なむ・・・」の歌も、
俊成は、「うるはしきすがたにはあらず」としながらも、
上の句下の句が見事にかみ合ったからこそ秀歌なのであり、
こういう歌は、西行くらい「道」に通じた歌人でもなければ、なかなか詠めるものではない、
と評価しています。

つまり、ストレートでわかりやすいものが受け入れられる時代的風潮の中にあって、
直截に歌うということをとことん追求し、
ある種の文学的境地に至るような歌を詠んで、
それが人を感動させれば、別に文句はないわけです。
たまたま直截に詠んだある一首だけが作品として成功した、
という例もあるでしょうが、
それ以上に、「直截に詠む」という歌風を確立して、
「直截に詠む」ことをこそ得手とする歌人として高く評価されるようになりさえすりゃ、
誰にも文句は言われません。

要は、歌体としていわゆる「腰折(上の句と下の句のつながりが悪い)」でなく、
全体が調和していて、人に感動を与える歌でさえあれば、
然るべき評価は得られるはずなのではないでしょうか。

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